手放したいなら握り込もう

「手放したければ、一度強く握り込んでしまうこと」

 

っていうのは、

 

ほんとうに、人生の知恵だよな~

 

……と思います。

 

 

 

というのも、最近、またひとつ、

 

枯葉が枝から離れるような自然さで、

 

「あること」(というか「ある感情」?)と

 

さようならができたのですが、

 

そしてそれによって

 

非常に軽やかで爽やかな気分を味わえているのですが、

 

これもまた、

 

「一度強く握り込んだ」からこそ

 

「ごくごく自然なさようなら」を

 

そのまま受けいれることができたのだろうな、と……。

 

 

 

「手放せ!」って言われて手放せるものなら

 

人間誰も苦労はしないわけで(笑)

 

「手放そう! 手放さなきゃ!」

 

っていう粘っこい思いがとりもちになって、

 

余計にいろんなものをくっつけてしまうことだって

 

往々にしてあるわけで……。

 

 

 

もう、それなら、思い切って握り込んじゃえ、と。

 

 

 

徹底的にそれについて考えたり、

 

やろうと思ってやっていなかったことを

 

思い切って実行に移したりするんです。

 

そうやって、握って握って握りまくる。

 

 

 

ぎゅぎゅぎゅーーーっと強く握り込んでしまえば、

 

当然、いつかは疲れてきますから(笑)。

 

疲れたら、自然に、「もういいかな」って思えますから。

 

そう思ったら、不思議なことに、

 

自分で「手放そう」って思わなくても、

 

ごくごく自然にあるべきところに運ばれていきますから。

 

 

 

「あるべきところ」とは、なんの力みもなく、

 

「ああ、これでよかったんだな」と思える場所です。

 

これ以上に「いいところ」なんて、ないと思うんです。

 

 

 

なんとな~く手の中にある、っていう状態が続くと、

 

握ることも離すこともできなくなって、

 

結果、自分を不自由にしてしまうことが起きてくるんですよね。

 

 

 

不自由は、苦しいです。

 

私は、自由を生きたいです。

 

 

 

ということで、「握る」の、オススメです。

 

 

 

ほんとうに

 

なにが起きても「大丈夫」なんだと思います。

 

 

 

自由を生きていきましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昨日とは打って変わって気持ちの良い青空が広がっています。

 

よい一日をお過ごしください◎

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目が覚めるということ(比喩でもなんでもなく)

私は、毎日だいたい22時には眠りについて、

 

朝は4時ぐらいに起きています。

 

 

 

前はいちいち目覚ましをセットしてから寝ていたけれど、

 

最近はそれもしなくなりました。

 

目覚ましを使わなくても、4時ぐらいになれば

 

ごくごく自然に目が覚めるので、それに頼っています。

 

(日によっては5時とか、あるいは3時とかに目が覚めます。

 

その場合はその時間に起きます。)

 

 

 

で、毎朝思うのが、

 

「ああ、今日も目を覚ますことができたなあ」

 

「すごいなあ」

 

っていうこと。

 

 

 

いや、なにも

 

「生きているよろこび、生かされているよろこび、感じてます!」

 

みたいな感じじゃなくて(笑)

 

まあ、もちろんそれもあるけれど、

 

どちらかと言えばもっと素朴な感じというか、

 

ごくごく単純に、

 

「目が覚めた」ということの不思議さに

 

驚いている感じなんですよね……。

 

(「感じ」「感じ」ってうるさいですね。すみません。)

 

 

 

「目が覚める」ってすごいことですよ。

 

だって、

 

「目を覚ました」のは「自分」じゃないから。

 

 

 

……って書くと、なんだかおかしな人みたいですが(笑)

 

いやいや、これ、ほんと不思議な話なんですよ。

 

 

 

いったい誰が「目を覚ます」んだろう?

 

って話です。

 

 

 

今朝だってそうです。

 

今朝、自分の力で目を覚ました人って、いますか?

 

自分の力で「いまから目を覚まそう!」と思って

 

目を覚ました人って、いますか?

 

 

 

いる?

 

いないですよね?

 

 

 

たぶん……いや、ぜったいに、

 

そんな人はいないはずなんです。

 

 

 

だって、「いまから目を覚まそう!」ができるなら、

 

その人、すでに目覚めているはずですからね(笑)

 

 

 

「自分」がなにかをするより前に、

 

「目が覚める」ということが、ごくごく自然に起きてきて。

 

そこに「自分の力」なんか、

 

ほんとうは一切およんでいなくて……。

 

 

 

じゃあいったい「誰」がそれをやっているの?

 

と言われたら、

 

もう、なにも言えなくなってしまうのだけれど……。

 

 

 

毎朝目が覚めること。

 

あまりにも「当たり前」過ぎて見落としているけれど、

 

これは地味に「奇跡」なんじゃないかな、

 

なんてことを思います。

 

 

 

こんなに不思議なことが

 

毎朝、当たり前のように起こっているなんて……。

 

 

 

まったくおおげさじゃなく、

 

感謝と感動しか、なくなってしまう。

 

 

 

やっぱり、生きているって、すごいことだなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東京は朝からしっかりとした雨が降っています。

 

よい一日をお過ごしください◎

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

南無阿弥陀仏が聞こえる

今日は、ちょっと本気モードのエントリーです。

 

(いや、いつだって本人は「本気」なんですけれどね。笑)

 

 

 

念仏のことを書きます。

 

南無阿弥陀仏のことです。

 

 

 

念仏って、「となえる」ものだと思われていますよね。

 

私も、そう思っていました。

 

念仏は、「となえる」ものだと思っていました。

 

 

 

でも、ごくごく最近気づいたんです。

 

念仏って、「となえる」というよりは

 

「聞こえる」ものだなあ、って……。

 

 

 

私という存在のベースには、

 

どうも、四六時中、

 

「南無阿弥陀仏」が響いているようなんです。

 

 

 

「ようなんです」と書いたのは、

 

それがあまりにも自然なこと過ぎて、

 

いままでそこに意識を向けたことがなかったから。

 

 

 

ほんとうに、ごく最近、自覚したんです。

 

 

 

いつでも、どこでも、なにをしているときでも、

 

「南無阿弥陀仏」が聞こえていることを。

 

となえるまでもなく、すでに聞こえていることを。

 

 

 

なんだろうな……。

 

こう、実際に耳で聞いているというよりは、

 

ただ聞こえているというか……

 

いや、すみません、わけわかんないですよね。

 

うーん。

 

聞こえているというか、ただそこにあるというか……。

 

 

 

それはいつだってそこ(というか「ここ」)にあって、

 

個人的な感情の高ぶり(うれしいときも、悲しいときも)が

 

起こってきたときに、特別クリアなものとして聞こえてくる。

 

そして、「聞こえる」とまったく同時に、

 

「となえる」ということが起きている。

 

そんな感じなんです。

 

 

 

これがいったいどういうことなのかは、

 

私にはさっぱりわかりません。

 

 

 

ただ、そういうことになっている。

 

それを、

 

受けいれるという意識もないままに、受けいれている。

 

 

 

そんな感じです。

 

 

 

私自身は、浄土宗の信徒さんでもないし、

 

浄土真宗の門徒さんでもありません。

 

(本家は父方も母方も浄土真宗ではあります。

 

けれど、父も母も、個人的には、どの宗派にも属していません。)

 

仏教は好きだし、熱心に学んでいるけれど、

 

とくべつ、どこの宗派に属しているわけでもありません。

 

 

 

それでも、

 

いつしか、私の存在の大元に

 

「南無阿弥陀仏」がどっしりと根を下ろすようになって……

 

というか、

 

ただ、そこに「南無阿弥陀仏」があったことに気づいた……

 

それだけなのかもしれません。

 

 

 

何度も書きますけれど、

 

私は、これがどういうことであるのかを

 

説明できるだけの技量を持っていないし、

 

そもそも説明するつもりもないんです。

 

だから、

 

これが「正しい」とか「間違っている」とか、

 

そういう議論にもまったく興味がなくて……。

 

 

 

でも、ただ、「ありがたいな」と思うんです。

 

ほんとうのほんとうに、ありがたいな、と。

 

主体も、対象もなく、

 

ただただ純粋に、ありがたいな、と……。

 

 

 

ただ、それだけ。

 

 

 

南無阿弥陀仏

 

 

 

……本気なことを書くとどきどきします(笑)

 

でも、このまま載せちゃおう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

よい一日をお過ごしください◎

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

変化を起こす楽しさと、変化とともにある愉しさと。

以前の私は、

 

未来の自分について考えることが大好きでした。

 

ヒマさえあれば考えていました。

 

 

 

「こうなったらいいな~」という未来の自分の姿を

 

超・超・超! 具体的に妄想するんです。

 

どこに住んでいて、どんな仕事をしていて、

 

どんな生活をしていて……とか

 

とにかく超具体的に、超リアルに妄想して、

 

ノートにもそれを書きつづって、

 

折に触れて見返して……。

 

 

 

みたいなことをしていたら、

 

不思議なことに、かなりの確率で、

 

それらの「こうだったらいいな~」は

 

実現していきました。

 

 

 

ほんと、

 

「ええ? どうなってるの!?」ってぐらい、

 

次から次へと「単なる妄想」が

 

「確固たる現実」へと姿を変えていきました。

 

 

 

そのひとつひとつが

 

とてもとても面白い体験でした。

 

 

 

……が。

 

あるとき、ふと気づいたんです。

 

 

 

「もう、未来の私に期待することって、ないかもな」って。

 

 

 

いや、もちろん、

 

「こうだったら素敵だな~」

 

みたいなものはあるんです。

 

でも、それは、

 

もはや自分ひとりに関することではなくて、

 

もっともっと大きななにかに関するものであって、

 

しかもガシッとした「期待」ではなく、

 

フワッとした「希望」のようなもので……。

 

 

 

なんだろうな。

 

昨日も書きましたけれど、

 

「自分の人生、自分で作ってやる!」

 

と力んで、

 

ゴリゴリゴリゴリやっているのも楽しかったけれど、

 

その力みが抜けたところに、

 

ごくごく自然に展開していくすべてと

 

ただただともにあること、

 

そういう「自分」として生きていくこと、

 

そのしみじみとした愉しさに気づいたのかもしれません。

 

 

 

まあ、どちらも「たのしい」んですけれどね。

 

でも、たのしさの種類が違うんですね。

 

 

 

前者は「変化を起こす楽しさ」

 

後者は「変化とともにある愉しさ」

 

……みたいな感じかなあ。

 

 

 

どちらを選んでもいいし、

 

両方を混ぜたような生き方をしてもいい。

 

選択権はこちらにある。

 

そういう意味で、私たちは完全に「自由」です。

 

 

 

ほんとうに、どう生きたっていいんだと思います。

 

なぜなら、最初から救われているからです。

 

 

 

またこのオチ……(笑)

 

 

 

でも、ほんとうにそう思います。

 

 

 

自由を生きていきましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

よい一日をお過ごしください◎

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分の人生を作っているのは

自分の人生を作っているのは自分ではない。

 

 

 

人生なんて、自分がどうこうする以前に、

 

ごくごく勝手に「あるべきよう」に

 

展開していってくれている。

 

 

 

それでも。

 

 

 

瞬間瞬間に選択が生まれて、

 

それに引き続いて

 

成功や失敗という物語が生まれて。

 

過去に対する後悔や

 

未来に対する不安にさいなまれて。

 

それもまたいつの間にやら消えていて、

 

またあたらしい物語に取り込まれて……。

 

 

 

そうやって、あたかも、

 

自分が自分の人生を作っているかのような

 

錯覚を抱くこともできて。

 

 

 

自分の愚かさ、自分のみじめさ、自分の至らなさに、

 

本気で泣いたり、本気で怒ったり、本気で笑ったり……

 

そういう人生を送ることさえ、ゆるされていて。

 

 

 

すごいな、と思います。

 

愛されているな、と思います。

 

 

 

ここには愛だけがある。

 

驚きに満ちた、愛だけがある。

 

 

 

ほんとうに、すごいことだなあ……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

よい一日をお過ごしください◎

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

©Yoko Koide