「俺がやさしいわけじゃないよ。猫が可愛いだけだよ。」

最近、夫が猫に夢中でして、

 

ヒマさえあればYouTubeで猫動画を観続けています……。

 

一緒に近所を歩いているときも、道端のノラ猫たちに

 

くまなく慈愛のこもった視線を送っているので、

 

「けいちゃん(夫の呼び名)はやさしい人だねえ~」

 

と言うのですが、

 

夫はそのたびにニュートラルな表情に戻って

 

このように言うのです。

 

 

 

「俺がやさしいわけじゃないよ。

 

猫が可愛いだけだよ。」

 

 

 

!!!

 

 

 

この発言……

 

毎回、地味に感動してしまいます……。

 

 

 

「俺」という、固定化された

 

「やさしい人物」がいるわけではなく、

 

「猫」という「縁」(この場合「因」かな?)によって、

 

「やさしさ」というものが、一時的に

 

「俺」の身の上にあらわれているだけなんだ、と……。

 

 

 

夫はいちいちここまで解説しないけれど、

 

(解説していたら単なる理屈っぽい猫おじさんですよね。笑)

 

まあ、たぶん、こういうことなんだろうな~、と……。

 

 

 

なんて仏教的な……!!!(笑)

 

 

 

いや、ほんと感動しますよ。

 

 

 

「やさしい人」

 

「怒りっぽい人」

 

「泣き虫な人」

 

「よく笑う人」

 

「あたまのいい人」

 

「意地悪な人」

 

「おしゃべりな人」

 

「無口な人」

 

「正直な人」

 

「うそつきな人」

 

 

 

そういう数多の「〇〇な人」は

 

言語によるレッテルであって。

 

すべてその時々の縁によって

 

瞬間ごとにあらわされた性質に過ぎないんですよね。

 

 

 

固定化された「〇〇な人」なんて、

 

ほんとうは、どこにも存在しなくて、

 

ただ、縁がたわむれているだけで……。

 

 

 

うちの猫おじさんに学びました(笑)。

 

 

 

ありがたいことです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

よい一日をお過ごしください◎

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やあ、スナフキン。ムーミン谷へようこそ。

ポジティブな感情も、ネガティブな感情も、

 

それが「感情」である限り、

 

一度やってきたら、

 

そう遠からず、かならず去っていきます。

 

 

 

旅人のようなものですね。

 

 

 

旅の途中で

 

ふいに我が家に立ち寄ってくれたのだから、

 

こちらもつかず離れずの距離を保ちつつ、

 

「まあ、お茶でも一杯……」と、

 

失礼にあたらない程度のおもてなしをしていれば、

 

しかるべきときに、旅人は、

 

また漂泊の旅に出て行ってくれるんですね。

 

 

 

かならず去って行くことを知っていれば、

 

まあ、怒りや悲しみなどのネガティブな感情には

 

さすがに感謝はできないかもしれないけれど、

 

でも、少なくとも、

 

いまここでこうして出会えたことの不思議さを

 

しみじみと感じることはできるんじゃないかなあ、って。

 

 

 

そんなことを思う初秋の早朝です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

よい一日をお過ごしください◎

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

変わりゆく変わらないものとして

ずっと家にこもって仕事ばかりしていると

 

気持ちがカサカサしてくるので(笑)

 

数か月前から、机の周りにお花を飾るようになりました。

 

駅前の花屋さんのサービス品のブーケを

 

そのままちっちゃい花瓶にさしているだけですが、

 

綺麗な色が目に入るたびに安らいだ気持ちになります。

 

お花ってすごいな~。

 

 

 

でも、どんなに綺麗なお花でも

 

買ってきて一週間もすると枯れてしまうんですね。

 

生きものなので当然なのですが……。

 

 

 

いや、ホント、お花は「生きもの」だなあ、って思います。

 

生きものなので、一日ごとに様子が違う。

 

ほんとうは一時間ごとに、

 

いや、一秒ごとに、瞬間ごとに、違っているのでしょう。

 

ただ、こちらがそれを見落としているだけで……。

 

 

 

枯れていくのはやっぱり悲しいけれど、

 

それも含めて「いのち」だな~と、

 

愛おしい気持ちをもって眺めています。

 

 

 

ほんとうは、この世のすべてそうなんですよね。

 

なにもかも、瞬間ごとにその姿を変えていっている。

 

 

 

思考も、感情も、感覚も、

 

生まれた瞬間から次々にその姿を変えていき、

 

やがてどこへともなく消えていく。

 

 

 

それを「私の思考」「私の感情」「私の感覚」として

 

思いっきり掴んでしまうから、

 

それらは消えることもできずにくすぶって

 

苦しみの原因へと姿を変えてしまうわけで……。

 

 

 

お花が自然に枯れていくように、

 

思考も、感情も、感覚も、

 

生まれてきたのなら、

 

かならず自然に去っていくので……

 

ただ、それにお任せしていればいいんですよね。

 

 

 

生まれて、変化して、消えて、

 

また生まれて、変化して、消えて……

 

ずっとずっと、それを繰り返しているだけ。

 

 

 

繰り返されるということだけが

 

変わらずにここにある。

 

 

 

変わりゆく変わらないものとしての「いのち」を

 

ただただ、永遠に生き続けていく。

 

 

 

ほんとうに、ただ、それだけだなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

よい一日をお過ごしください◎

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

前世の記憶と、味噌汁の具

「前世、私は〇〇国の王女で……」

 

というお話と、

 

「昨日、私は、ナスとミョウガのお味噌汁をいただきました」

 

というお話との間には、

 

実は、まったく、なんの差もない!!!

 

……と、はっきり気づいたのは、

 

ごく最近のことでした。

 

 

 

このブログでも、過去幾度も書いていますが、

 

私は「前世」や「来世」という物語に

 

リアリティーを感じていません。

 

お話としての面白さは感じているけれど、

 

そもそも個別の魂の存在を疑っているので、

 

転生ということ自体が起こり得るものかどうか、

 

疑問ですよね~と思っているのです。

 

 

 

でも。

 

ふと思ったんです。

 

 

 

私は、前世(や来世)に関しては、

 

「そんなの、ほんとにあるのかな~」

 

と堂々と言っているのに、

 

昨日起きたことに関しては、

 

いちいち疑いを口に出していないなあ、って。

 

 

 

これってなんで?

 

 

 

「昨日起きたこと」だって、

 

「前世で起きたこと」と同じぐらい、

 

「ほんとうかどうかわからないこと」なのに。

 

 

 

「昨日起きたこと」だろうが、

 

「前世で起きたこと」だろうが、

 

すべて、

 

いまここに、

 

ふわっと湧き上がってきた

 

ひとつのアイディアに過ぎないんじゃない?

 

 

 

「前世」も、「昨日」も、

 

ひとつのアイディアとして

 

いまここに湧き上がってこなかったとしたら、

 

それは「どこにも存在しない」のと

 

まったく同じことですよね?

 

 

 

そういう意味で、このふたつはまったく一緒じゃん!

 

どちらかを特別扱いすることなんかないじゃん!

 

 

 

目からウロコ~

 

 

 

ほんとうのほんとうのほんとうに、

 

いましかないし、ここしかない。

 

そして、

 

いますらないし、ここすらない。

 

 

 

過去(前世)も、未来(来世)も、現在(今生)すらも、

 

あるけどなくて、ないけどある。

 

 

 

ぜんぶあるけど、ぜんぶない。

 

 

 

すごいなあ。

 

 

 

もう、ほんとうに、ばかみたいに繰り返しちゃう。

 

すごいことだなあ、って。

 

 

 

だってもう、それしか言えない。

 

 

 

南無阿弥陀仏

 

 

 

 

 

 

 

 

 

よい一日をお過ごしください◎

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だから仏教が好きなんです。

仏教の好きなところは、外側に敵を作らないところです。

 

というかそもそも「外側」という概念がないんですね。

 

それが、すごくいいなあ、って。

 

昨日も夫とプリンを食べつつ、

 

そんなことを暑苦しく語り合っていました。

 

(どんな夫婦だ……。)

 

 

 

曼荼羅ってありますよね。

 

あの中には無数の神仏の姿が描かれています。

 

その中には「鬼」とか「悪魔」と呼ばれるような存在も

 

きちんと書き込まれていて……。

 

排除していないんですよね。

 

いや、排除していないというか、

 

そもそも「外側」がないから排除しようがないというか……。

 

(だって曼荼羅がそのまま「世界」ですものね。

 

「世界」の外側は、曼荼羅には描けませんよね。)

 

 

 

善神と呼ばれる存在だろうが、

 

悪鬼と呼ばれる存在だろうが、

 

すべて、間違いなく「いのち」そのもの、

 

つまり「仏」としてあらわれているのであって、

 

だから、そこには、本来、「善」も「悪」もない。

 

 

 

「善」や「悪」を分けて考えてしまうこころすら

 

「いのち」=「仏」のあらわれなのだとしたら……

 

 

 

もう、否定するものがなくなってしまいますよね。

 

 

 

おおらかで、穏やかで、とてつもなくやさしい、

 

安心(あんじん)だけが広がる世界。

 

それをきちんと体系立てて、論理的に説明してくれている……

 

 

 

やっぱり、仏教、大好きです。

 

たぶん、一生、好きです。

 

(突然の大告白!)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

よい一日をお過ごしください◎

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

©Yoko Koide