変化の波、変化と波

相も変わらず、変化の真っただ中にいます。

 

秋になってから、さらに加速している感じもあって。

 

 

 

仕事から、環境から、人間関係から、

 

それらに対する個人的な感懐から……

 

ほんとうに、いろいろいろいろ変わっていくなあ……。

 

 

 

あまりにも私が「変化! 変化!」と叫ぶものだから、

 

周りの人たちのあたまには

 

「小出=変化大好き人間」

 

みたいな図式が浮かんでいるかもしれないのですが、

 

変化って、自分で起こそうと思って

 

起こせるものじゃないんですよね。

 

ぜんぶ、「おのずから」やってくるものであって、

 

「みずから」どうこうできるものではない。

 

 

 

海を漂う波は、その姿かたちや進むべき方向を

 

決して自分の力で決めることができません。

 

ぜんぶ、海全体のダイナミズムの中で起きていること。

 

 

 

それと同じで、私たち人間は、

 

自分の姿かたちや進むべき方向を

 

自分の力で決めることはできないんですよね。

 

ぜんぶ、全体からの要請の中で、

 

ごくごく自然に、起こることが起きてくるだけ。

 

 

 

私は、ただ、それを、

 

受けいれるという意識もないままに

 

受けいれているだけ。

 

 

 

「そんな流されるような生き方は嫌です!」

 

というような意見もあるでしょうけれど、

 

どうだろう。

 

流されるべき「私」をそこに想定するから、

 

抵抗、つまりは苦しみが生まれてしまうんじゃないのかな。

 

 

 

「波」と「海」との境目なんて、

 

ほんとうはどこにも見当たらないように、

 

「私」と「全体」との間の区別なんて、

 

ほんとうはどこにもないんじゃないかな。

 

 

 

変化を苦しく感じるときは、

 

自分の正体を思い出せばいい。

 

 

 

「自分はひとひらの波なんかじゃない、大きな大きな海なんだ」

 

 

 

海そのものであることを思い出すことができれば、

 

おそいかかる荒波、それ自体が消えてしまいますから。

 

 

 

大丈夫ですよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

よい一日をお過ごしください◎

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ありのままじゃない自分」なんかいない

いつであっても、どこであっても、

 

「ありのままの自分」以外の自分に出会うことなんか

 

ぜったいにないんだよな~、と。

 

 

 

「ありのままの自分」というのは、

 

いまここにこうしてあらわれている「これ」、

 

まさしくこの自分のことであって、

 

それ以外にはぜったいにありえない。

 

 

 

つまり、

 

「ありのままの自分」と

 

「ありのままじゃない自分」、

 

このふたつがあるわけじゃなくて、

 

「ありのままじゃない(と思っている)自分」すら、

 

絶対的に「ありのままの自分」だっていうことです。

 

 

 

……意味、伝わっていますかね?

 

 

 

ほんとうのほんとうのほんとうに、

 

「いま」しかないし、

 

「ここ」しかないし、

 

「これ」しかないんです。

 

 

 

「いま」立ちあらわれている「すべて」が「すべて」だし、

 

「ここ」に立ちあらわれている「すべて」が「すべて」だし、

 

「これ」として立ちあらわれている「すべて」が「すべて」なんです。

 

 

 

な、なんだか息切れが……(笑)

 

 

 

でも、ほんとうに、ものすご~くシンプルなことなんですよね。

 

「いま」しかないし、

 

「ここ」しかないし、

 

「これ」しかない。

 

「いま」「ここ」の「これ」以外にない。

 

「いま」「ここ」の「これ」からは、ぜったいに逃れられない。

 

 

 

……とは言え、

 

「いまの自分はありのままの自分じゃないから、

 

ありのままの自分になるために頑張らなきゃいけないんです!」

 

と言って、必死になって努力をするということが、

 

いまここで起こっているのだとしたら、

 

それも決して否定されるべきものではなくて。

 

だって、この場合は、

 

「頑張らなきゃ!」が「これ」になっているわけだから。

 

 

 

「いま」「ここ」に「これ」として立ちあらわれるものの姿は、

 

「自分」の力では、ぜったいに選べない。

 

 

 

「じゃあ、いったいどうすればいいんですか!?」と聞かれても、

 

「すみません、なにもできません」と答えるほかなくて。

 

 

 

でも、その「なにもできません」に徹し切ったときに、

 

ようやく、「ありのまま」の世界に遊べるようになる、

 

ということぐらいは言えるかな……。

 

 

 

なんだか難しい?

 

でも、ほんとうは、

 

びっくりするほどシンプルなんですよね。

 

 

 

このシンプルさと、仲良くできたらいいね。

 

 

 

南無阿弥陀仏

 

 

 

 

 

 

 

 

 

よい一日をお過ごしください◎

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

花火と祈りと人生と

先日、新潟県小千谷市片貝町のお祭、

 

浅原神社秋季例大祭奉納大煙火、

 

通称「片貝まつり」にお邪魔してきました。

 

 

 

片貝は神社への奉納花火で有名な町。

 

成人を迎えればお祝いの花火をあげ、

 

厄年になれば厄除け祈願の花火をあげ、

 

子どもが生まれれば健やかな成長を祈って花火をあげ、

 

親しい人が亡くなれば追善供養の花火をあげ……。

 

人間の一生にここまで花火が密に関わっている地域は

 

片貝をおいてほかにはないでしょう。

 

 

 

今回は片貝町出身の母が中学校の同級生70名とともに

 

還暦記念の大スターマインをあげるというので

 

見届けてきたのですが……。

 

 

 

いやー……

 

正直、泣かされました。

 

一発一発に込められた「人生」という名の物語に。

 

そして、

 

ほんの一瞬のうちに消えていく

 

強くはかない光の粒に

 

ここまで大きな「祈り」を込めることのできる

 

人間という存在の尊さに。

 

 

 

いや、もしかしたら、

 

それそのものが

 

「一瞬のうちに消えていく」ことを知っているからこそ、

 

人間は、自分をも含めた誰かの人生に対して

 

強い祈りを抱かざるを得なくなるのかもしれない。

 

 

 

人間として生きるということは、

 

そのまま、物語を生きるということ。

 

その物語は、はかないながらに、

 

どうしようもなく、強い。

 

 

 

あの夜の花火の閃光は、

 

あとかたもなく消え去ってしまって

 

もうどこにも存在していないけれど……

 

 

 

でも、だからこそ、

 

涙が出るほどに、うつくしいものだったのだろうな、と……。

 

 

 

すごいものを観たな……。

 

 

 

ありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

よい日曜日を◎

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

絶対的な「降参」の中で

見よう、見よう、と力まなくても、

 

すでになにかは見えている。

 

聞こう、聞こう、と力まなくても、

 

すでになにかは聞こえている。

 

感じよう、感じよう、と力まなくても、

 

すでになにかは感じられている。

 

 

 

いつだってそう。

 

しよう、しよう、と力まなくても、

 

すでになにかは為されている。

 

 

 

変な風に力まなくても、

 

すでに、すべては、

 

あるべき姿としてあらわされている。

 

 

 

「そんなこと言ったって、どうしたって力んでしまいます!」

 

 

 

「力む」ということすら、

 

あるべき姿として、

 

ただ、あらわされているのだとしたら?

 

 

 

……もう、降参するしか、ないですよね。

 

いや、降参「する」ことすら不要かな。

 

 

 

おまかせしよう、おまかせしよう、と力まなくても、

 

すでに、すべては、

 

絶対的な「おまかせ」の中で起こっているわけで。

 

 

 

やっぱり、降参です。

 

降参しかない。

 

 

 

南無阿弥陀仏

 

 

 

 

 

 

 

 

 

よい一日をお過ごしください◎

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こころは複雑、からだは単純

「からだってすごいな~、ありがたいな~」

 

ってことを、

 

最近ますます強く思うようになりました。

 

 

 

なぜなら、からだはいつだって

 

「いまここ」を生きているからです。

 

 

 

こころ(あたま)の中で、

 

どんなに過去への後悔や未来への不安を

 

こねくりまわしていたとしても、

 

からだはいつだって「いまここ」を生きているんですよね。

 

 

 

目は1秒前に見たものの像を残していないし、

 

耳は1秒前に聞いたものの音を残していないし、

 

鼻は1秒前に嗅いだものの匂いを残していないし、

 

舌は1秒前に味わったものの味を残していないし、

 

皮膚は1秒前に触れたものの感触を残していない。

 

 

 

残っているよ!

 

……と思うのはこころ(あたま)の作用であって、

 

事実、からだのどこを探しても

 

1秒前の感覚は残っていない。

 

 

 

……ということで、

 

全身全霊で「いまここ」を生きたいなら、

 

からだを大事にしていくのが一番だと思います。

 

 

 

なにかつらい思いを抱えているときは、

 

こころをいじってどうにかしようとするよりも、

 

ただ単純に、

 

からだのよろこぶことをしてあげればいいですよ。

 

 

 

てっとり早いのは、

 

からだ(とくにおなかから下)を

 

あたためることかなあ……。

 

 

 

どんなにこころが冷えた感じがしても、

 

なにかあたたかいものを飲んだり、

 

お風呂に入ったりするだけで

 

「ふわ~」とゆるんで、ほどけていきますから。

 

そうしたら、ごくごく自然に

 

「いまここ」が見えてくるので。

 

 

 

こころ(あたま)は複雑だけど、

 

からだは、単純。

 

その単純さに、救われます。

 

ありがたいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

よい一日をお過ごしください◎

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

©Yoko Koide