冷えとりと念仏

冷えとり健康法をやっていると、

 

割とよく奇妙な眼差しを向けられるんです(笑)。

 

まあね、靴下何枚も重ね履きするなんて

 

「常識」から見れば

 

「ぜったいにおかしいよ~!」

 

ってことになるのかもしれないけれど、

 

いいんですよ、別に。

 

誰にどう言われようが、とにかく心地よいので。

 

 

 

「そんな変な格好してまで健康になりたいの?」

 

「ていうかそんなに不健康なの!?」

 

みたいなことも(間接的に)言われたりするんですけれど、

 

うーん、それはちょっと、っていうか、絶対的に違うかなあ。

 

「(未来に)健康になりたい」というより、

 

「(いま)健やかでありたい」というか、

 

足元が冷たいよりはあたたかい方が心地よいので

 

やっているだけなんですよね。

 

 

 

基準がいつだって「いま」にある、ということです。

 

未来志向じゃない。

 

 

 

もちろん、最初は、からだの不調をどうにかしたくて始めました。

 

病気を治すために、多少不格好だろうが背に腹は代えられぬ、

 

というところから靴下を何枚も履くようになりました。

 

で、数年経ったいま、

 

当時の不調はもうほとんど消えてしまったのですが、

 

私は、当たり前のように靴下を重ね履きして、

 

20分以上の半身浴を欠かさないようにしています。

 

なぜなら心地よいからです。

 

そうしている「いま」が、心地よいからです。

 

 

 

……というより、

 

最近では「心地よいから」とも考えていないかもな。

 

ただ履く、ただ入る、ただあたためる、ただ巡らせる。それだけ。

 

 

 

念仏と一緒ですよね(笑)。

 

南無阿弥陀仏も、もはや「なにかのために」となえていない。

 

「となえよう」「となえなきゃ」と思ってすらいない。

 

ただ、南無阿弥陀仏。それだけ。

 

そこには「いま」しかない。

 

 

 

結局、なんでも、真剣にやっていれば、

 

最後には「いま」に還っていくんじゃないかな。

 

でも、まさか靴下の重ね履きから

 

「いま」にいくとは思っていなかったな~(笑)。

 

 

 

面白いですね。

 

ありがたいです。

 

 

 

南無阿弥陀仏

 

 

 

 

 

 

 

 

 

よい一日をお過ごしください◎

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

悩まなくても

このブログにも、もう何度も書いていますが、

 

私は、ほんとうに忘れっぽい人間でして。

 

しかもここ最近、その傾向に拍車がかかりまくって、

 

もう誰にも止められない状態です……。

 

ある意味、無敵……?

 

 

 

どのぐらい忘れっぽいか、というと、

 

「問題」っぽい事態に直面した、そのほとんど次の瞬間には、

 

「問題」っぽい事態に直面したこと自体を忘れているぐらいで……。

 

だから、なににおいても「悩む」ということが

 

ほとんどなくなってしまいました……。

 

 

 

だから、まあ、楽ですよ(笑)

 

 

 

いや、そうは言っても、

 

「やばい、これは困ったな……」

 

みたいな風に思うことがなくなったわけじゃなくて。

 

むしろ、おっちょこちょいに生まれついてしまったものだから

 

そういう「困った事態」に直面することは、

 

人よりもたぶん多いぐらいだと思うのですが、

 

しかし、それが「悩み」に変わらない。

 

 

 

「悩み」に変わる前に忘れてしまっているので……。

 

 

 

でも、忘れていても、

 

ぜったいに「どうにかなる」んですよね。

 

 

 

むしろ、忘れてゆるんでいるからこそ、

 

最短でものごとが解決していっている気がする。

 

わからないけれど。

 

 

 

この世には、「どうにかならない」ことなんて

 

ぜったいにないんですよ。

 

なぜなら「諸行無常」だから。

 

ずーっと同じ状態である/いることなんか

 

ぜったいにないから。

 

問題が問題であり続けることなんてぜったいにない。

 

すべて、ぜったいに「どうにかなる」んですよね。

 

 

 

問題なんて、ほうっておけば解決してしまいます。

 

かならず。

 

考えても、考えなくても、

 

解決するときはかならずやってくる。

 

 

 

それなら、

 

悩むことに余計なエネルギーを使うことをやめて、

 

ゆるんで生きていた方がたのしくないですか。

 

 

 

……と言うと、

 

「なにもしないで問題が解決するわけがないじゃないですか!」

 

みたいなことを言われてしまうんですけれど、

 

いや、私は「なにもするな」って

 

言っているわけじゃないんですよ。

 

 

 

「なにもするな」って言われても、

 

人間、ぜったいになにかしていますからね(笑)。

 

縁によって、ごくごく自然に行動はあらわれてくるので。

 

 

 

考えても考えなくても、悩んでも悩まなくても、

 

「解決に向けての行動」って、ぜったいに出てくるんですよ。

 

 

 

考えなかったら解決できない!

 

なんていう風に力まなくても、

 

私みたいに、自分が困っていることすら忘れていても、

 

しかるべきときに、

 

「あ、これをしておこう」とか、

 

「あの人に話を聞いてもらおう」とか、

 

そういうひらめきみたいなものは、勝手にやってきてくれるので。

 

あとは、ただただそれに乗っかっていけば、

 

いろんなことが、ごくごく自然に解決していくんですよね。

 

ありがたいことです。

 

 

 

力を抜いて生きていても、バチは当たらないです。

 

 

 

嘘じゃないですよ(笑)。

 

もしよかったら、試してみてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

よい一日をお過ごしください◎

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんにもないのに、こんなにある。

朝、深い眠りから覚めた瞬間、

 

いまがいつで、ここがどこなのか、

 

ついでに言うと私が誰なのか、

 

さ~~~っぱり、

 

ほんとうにさ~~~~~~~っぱり、

 

思い出せない!!!!!!!!!!(愕然)

 

……みたいな感じになるときってないですか?

 

私はしょっちゅうです。

 

 

 

あまりにもしょっちゅうそういうことが起こるもので、

 

ときどき自分のことが心配になりますが(笑)

 

でも、どうなんだろうな~。

 

ほんとうは、こっちの、

 

いまはいつ? ここはどこ? 私は誰?

 

みたいな世界の方が

 

「ほんとう」だったりしてね……。

 

というより、

 

いつ? どこ? 誰? すらない世界の方が……

 

っていうのが正確かな。

 

 

 

いや、冗談じゃなくてね。

 

だってそうでしょう。

 

時間も、場所も、自分も、

 

ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、

 

いま・ここに、これとしてあらわれた

 

ひとつのアイディアに過ぎないのだから。

 

 

 

それらの存在って、

 

ぜったいに、客観的に証明できないですからね。

 

 

 

つまり、

 

いまは2016年9月16日午前6時半で、

 

ここは東京都北区の川沿いのマンションの一室で、

 

私は小出遥子という32歳の人間で……

 

っていうようなアイディアが、

 

もし、いまここで湧いてこなかったとしたら、

 

2016年9月16日午前6時半も、

 

東京都北区の川沿いのマンションの一室も、

 

小出遥子という32歳の人間も、

 

どこにも、

 

ほんとうにどこにも!

 

存在していない!!!

 

っていうことなんですよ。

 

 

 

意味、伝わっていますかねえ……。

 

 

 

伝わっていても、伝わっていなくても、

 

まあ、いいんですけれどね。

 

(いいのか?)

 

これだって、どのみち、

 

ひとつのアイディアに過ぎなかったりするので。

 

(あはは! 極論!)

 

 

 

ほんとうのところ、

 

いまここには、なんにもない。

 

なんにもないのに、こんなにある。

 

こんなにあるのに、なんにもない。

 

 

 

面白いな、と思います。

 

単純に、面白いな、って。

 

 

 

南無阿弥陀仏

 

 

 

 

 

 

 

 

 

よい一日をお過ごしください◎

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

空気を読んだらこうなった。

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福岡:自己とは何か、という問いに生物学はどこまで答えられるかわかりませんが、一つヒントになるのは、細胞のメカニズムです。細胞はあらかじめ心臓の細胞になったり、脳の細胞になったりといった風に機能が決まっているのではなくて、「君が心臓になるなら、僕は筋肉になる」とか、「君が脳細胞になるなら、僕は頭がい骨になる」といった風に、まわりの細胞の動きにしたがって、まさに「空気を読みながら」変化していくんです。一つの細胞はせいぜい前後左右の細胞としかコミュニケーションがとれないのに、全体としてはうまく機能するようになっている。これを「相補性」と言います。反対に一つの塊になった細胞をバラしてしまうと、自分が何になったらいいかわからなくなってみんな死んでしまうんです。細胞よりさらにこまかいタンパク質や、分子のレベルでも同じことが言えて、パズルの一ピースのように組み込まれるとある役割を果たすけれども、一つだけでは何の役にも立たない。ほとんど無限の入れ子構造が成立しているんです。

 

 

(文春文庫『六つの星星 – 川上未映子対話集』 福岡伸一との対談「生物と文学のあいだ」より抜粋)

 

 

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自分の役割は、自分以外のすべてが決める

 

 

 

……という説を

 

私が確信をもってとなえ始めたのは、

 

まあ、最近のことではありますが

 

それと同じことが、生物学の中でも言われているとは!

 

こういうのって妙にうれしいですよね。

 

 

 

ひとつの細胞は、あくまで細胞でしかなくて、

 

心臓の細胞の素(もと)と

 

筋肉の細胞の素(もと)との間には、

 

最初の段階では差異は認められなくて、

 

でも、

 

自分がたまたま位置した場所において

 

「あ、ここでは、こういう動きをする細胞が必要なんだな」

 

「俺、たまたま身体空いているし、

 

なんか知らないけどそういう風に動けるし、

 

やってやってもいいぜ?

 

……っていうかやらせてください!」

 

みたいな風に、それこそ「空気を読んで」、

 

本来「なにものでもない細胞」であったものが

 

「心臓の細胞」になったり、

 

「筋肉の細胞」になったりしている、

 

っていうことですよね。

 

(違っていたらごめんなさい。)

 

 

 

人間とまるきり一緒じゃないか。

 

 

 

いや、ほんと、よく考えるんですよ。

 

私は、いったいどうして

 

こんなことをしているんだろう、って。

 

まあ、主に仕事の面でね。

 

どうして「小出遥子」は

 

こういうお役目についたんだろう、って。

 

 

 

もちろん、そこに悲壮感や後悔があるわけではないのですが

 

(むしろしみじみとしたよろこびの中でやっているのですが)

 

でも、考えれば考えるほど不思議なんですよ。

 

 

 

本来「なにものでもないもの」として生まれてきたのだから、

 

(可能性としては)なんにでもなれたはずなのに、

 

考えれば考えるほど、

 

いまここのこの私しかあり得なかったというか、

 

いまここの私に続く道は、

 

それはそれは見事な一本道でしかなかったなあ、って。

 

 

 

で、ここからが大事なのですが、

 

その「道」を作ったのは、

 

決して自分じゃなかったなあ、って。

 

道を作ってくれたのは、自分以外のすべてであって、

 

自分がしたことと言えば、

 

やっぱり「空気を読んだ」ぐらいのものなんだよなあ、って。

 

 

 

「え、この道って、

 

もしかして私のために用意されているの?

 

あ、やっぱりそうなの!?

 

そうしたら……ありがたく歩ませていただきますね……

 

な、なまんだぶなまんだぶ……」

 

みたいなね(笑)。

 

でも、まあ、ほんとうにそんな感じ。

 

 

 

仏教で言えば「縁起」っていうことになるんだろうな。

 

ぜんぶ「縁」の中で起こってきたことであって、

 

そこに自分の意志なんか、1ミリだって反映されていなくて。

 

 

 

不思議なような、ぜんぜん不思議じゃないような、

 

でもやっぱり不思議……。

 

 

 

不思議だけれど、ここにはよろこびがあるなあ。

 

全体との「本来的な」つながりの中にあるよろこび。

 

なにものにも代えがたい、感謝とともにあるよろこびです。

 

 

 

なので、「縁」がそのようである限り、

 

私は、ここで、「小出遥子」の役割をまっとうし続けます。

 

 

 

がんばるよ~

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東京はしっかりとした雨が降っています。

 

よい一日をお過ごしください◎

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ゆるせなくても、受けいれられなくても

「ゆるせない!」「受けいれられない!」

 

というようなことすら、

 

絶対的にゆるされていて、

 

絶対的に受けいれられているんですよね。

 

 

 

誰に? って聞かないでくださいね(笑)。

 

それは、それこそ絶対に答えられない、

 

ことばにできない領域の話なので。

 

 

 

まあ、あえて言うのなら、

 

「誰」を超えたところにいる/ある、

 

自分以外の、かたちを持たない「誰か」

 

ということになるかなあ……。

 

「いる」も「ある」も「誰か」も

 

ぜんぜん正確な表現ではありませんが……。

 

そんなものは実際にはどこにもないので……。

 

(あああ、堂々巡り……。)

 

 

 

絶対的な「ゆるし」、絶対的な「受容」の上で、

 

「これ」(文字通り「これ」です。目の前の「これ」)は、

 

いまここにこうして立ちあらわれているわけで。

 

 

 

その「ゆるし」や「受容」は、

 

完全、完璧な「ゆるし」であり「受容」であるので、

 

「ゆるせない!」という思いや、

 

「受けいれられない!」という思いすら、

 

完全、完璧に、ゆるして、受けいれてしまっているんです。

 

 

 

逆に言えば、

 

というか、極論すれば、

 

ゆるすことや、受けいれることは、

 

人間の仕事じゃない、

 

ということですね。

 

 

 

人間は、あくまで「ゆるし」や「受容」の対象であり、

 

(ゆるされ、受けいれられるものであり、)

 

その主体ではないのだと思います。

 

 

 

「ゆるそう!」「受けいれよう!」と頑張るのは

 

決して悪いことではないけれど、

 

ほんとうの「ゆるし」や「受容」は、

 

そういった個人の営みの背後に

 

いつだって静かに佇んでいて……。

 

 

 

その事実に気がついたときに、

 

人ははじめて「愛」の意味を知るのではないかな……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

よい一日をお過ごしください◎

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

©Yoko Koide