太陽の塔

瞑想が毎朝の習慣となって久しい。ほとんど自己流だが3年以上続けている。瞑想ができなかった日はどうも一日調子が出ない……なんてことを思うぐらいに、もはや日課となってしまった。

 

とは言っても、まだまだ修行は足りていなくて、疲れて途中で眠くなることもあるし、ぜんぜん集中できなくて、「ただ考え事してただけだったな~」ってこともある。(でもそれもすべて意味があってのことらしい。「瞑想中に起こることは、すべてカルマの解消につながっているのです。寝てしまったような気がするときにもカルマはちゃんと解消されていますから安心してください」って、タイのとある瞑想の大家もおっしゃっていたし……ってアヤシイですね、すみません)

 

そんな私でも、ほんの時折、「ああ、いい瞑想ができたなあ」と実感できるような日があって、そんなときには、瞑想中、自分が太陽の塔となって大宇宙(これもまたアヤシイ)に突っ立っているような気分になるのだ。そう、大阪の万博公園に立つ、岡本太郎作のアレである。あの、見る者の心をかき乱さずにはおかない、巨大で、不気味で、「爆発だ!」の、アレである。私はアレが大好きなのだ。

 

太陽の塔には3つの顔がある。てっぺんについているのが未来を表す「黄金の顔」、おなかの辺りについているのが現在を表す「太陽の顔」、背面に描かれているのが過去を表す「黒い太陽」。(実は「地底の太陽」なる4つ目の顔もあったらしいけれど、現在行方不明中だそうで……いつか対面を果たしたいものです。)

 

で、私は、瞑想中、太陽の塔と一体となって、おなかについた「太陽の顔」を自分の本体として感じているんですね。そこにこそ本当の自分がいるような、それ以外の「顔」はすべて見せかけの付属品であるような……そんな感覚。

 

おなかのあたりで、全宇宙と一体になって、ただただじっと「いま」を見つめている――

 

……あれ、またアヤシイこと書きました? しかし、実際、そのような状態になると、「いま」しか見えなくなるのです。ただ、「いま」。「いま」しかなくなる。過去も未来も存在しないんだ、自分が勝手に作り上げた幻想に過ぎないんだ……。「いま」しかない状態になって、はじめてそのことがわかるのです。

 

「いま」を感じるのは、頭じゃない。背中でもない。身体の中心……そう、「太陽の顔」があるあたりだ。それを人によっては「肚」とか「丹田」とか呼ぶのだろう。「いま」には、すべてがあって、同時にまた、すべてがない。すべてがないからこそ、すべてがある世界。「いま」こそが、本当の世界なんだな、と思う。そこ以外に本当の世界なんてないんだな、と思う。

 

色即是空 空即是色

 

太郎さんがなにを思って太陽の塔を創作されたのかはわからないけれど、真ん中にある顔が「現在」を表す、っていうのは、それこそ肚にストンと落ちるような、本心から納得できるような話である。未来は先を見ようとする心(頭)が見せたまぼろし。過去は後ろを振り返る心(背中)が見せたまぼろし。いずれも本体(=おなか)とはズレたところに位置している。「いま」には希望も絶望もない。ただ「いま」があるだけ。まぼろしの世界に意識を逃避させることは簡単だし、はっきり言って楽ちんだ。でも、私は、太陽の塔のように、大地にどっしり足をつけて、いつだってまっすぐに「いま」を見つめていたいと思う。「いま」にしか救いはないし、本当のよろこびもないと思うから。……ものすごく難しいんですけどね。

 

ゆるしかた

どうしてもゆるせない人がいた。

 

普段は忘れていても、ふとした折に、「あの人さえいなければ、私の人生もっと違っていたかもしれないのに」なんて思いが頭をもたげてきて、私を悪意でいっぱいにした。

悪意は体の中だけにとどまらず、周囲にまでじわじわと漏れ出て、たくさんの人を傷つけ、再び私に戻ってきた。

そして、そのあと必ず、そんな自分が嫌いになった。

そんなことを何年間も繰り返し続けていた。

苦しかった。いい加減、うんざりしていた。

 

あるとき、私にこんなことを言ってくれる女性が現れた。

 

「その人はもう幸せなんだって思いこんでみたら? その人は幸せです、もう十分に幸せです! って決めちゃえばいいのよ。まずはそう口に出してみたら?」

 

……びっくりしてしまった。

 

自分を不幸にした相手の幸せを思う……? そんなことできっこないよ! なんでそんなことしなきゃいけないの!? 冗談じゃない!

 

そんな風に反発したのは一瞬だった。

 

彼女のあっけらかんとした明るい笑顔を見ていたら、頑なになっていた私の心に、ひとすじの光の亀裂が走った。

それと同時に、遠くの方から「チリ……」と、かすかだけれど、なにやらとてつもなく心地よい音が響いてきた。

 

やってみよう、と思った。

 

思い切って口を開いたはいいけれど、最初はまったく声が出てこなかった。

私の声は意思を持って「出て行くまい」としているようだった。

唇は震え、口の中は渇き、舌はもつれてからまった。

何度も深呼吸をして、絞り出すようにして……

 

「あの人は、もう、幸せです。幸せに、生きて、います。」

 

ああ、言えた……

よかった……

 

そう思うやいなや、眉間の奥のある一点が、焦げつくほどに熱くなった。

 

ぎゅっと目をつぶって、その人が幸せそうに笑っている姿を思い浮かべてみた。

そしてもう一度だけつぶやいてみた。

 

「あの人は、もう、幸せになっています。もう、大丈夫です……」

 

もう大丈夫です、の言葉は口をついて出た。

と同時に、涙がこぼれた。

一粒こぼしてしまうと、もう止まらなかった。

 

その涙は、安堵の涙だった。

そして、「ゆるし」の涙だった。

 

相手をゆるす気持ち以上に、自分をゆるす気持ちが、自分を癒した。

自分は、もう、自分のことをゆるしていいのだと思った。

解放されても、いいのだと思った。

 

相手の幸せを思うこと。

それが自分を解放する唯一の手段だったなんて。

 

そのときまで私は、誰かから悪意を向けられたときには、その相手に対して悪意を返すことしか知らなかった。

 

「あの人があのままで生きていけるわけがない!」

「だって私は悪くないんだし!」

「ぜったいバチがあたるよ!」

「どん底に落ちちゃえ!」

「私が味わった苦しみをおんなじだけ味わえばいい!」

 

そんな思考を、なかば意地になって働かせて、その人が不幸になる様子を頭の中で思い描いては、溜飲を下げているような醜い自分がずっといた。

それでも、その「溜飲」は下がりきっていなかったのだ。

むしろ、そんな想像をすればするほど、毒は溜まっていったのだ。

溜まりに溜まって、致死量まであと少し……

もう、限界だった。

 

不幸にもすれ違うことしかできなかった人、その人の幸せを祈ること。

 

それをはじめて自分に許可した瞬間、本当は、私は、相手の不幸を祈るよりも、幸せを祈りたかったのだと気がついたのだった。

私は、多分、ずっと自分を責めていたのだ。

「私のせいで、あの人は不幸になってしまった……」

そんなストーリーを自分の頭の中で作り上げて、苦くてまずくて吐き出したいのに、いつまでもいつまでも噛みしめ、飲み込み、反芻していた。

「あの人を不幸にしたのは私。そんな私が幸せになれるわけがない。」

そんな信念を、後生大事に持ち歩いていたのだ。

 

相手が不幸になっている姿を思い浮かべて、一番傷ついていたのは、実は自分だったのだ。

相手の不幸は、そのまま自分の不幸だったのだ。

 

相手の幸せを祈ることは、そのまま自分の幸せを祈ること。

相手の幸せを「決める」ことは、自分が幸せであることを「決める」こと。

 

大好きだったからこそ大嫌いになった、愛し合っていたからこそ憎しみ合うことになったその相手が、

私の頭の中で、幸せそうに笑ってくれた瞬間。

 

「もう、自由になっていいんだよ」

 

そんな声が、はっきりと聴こえたのだった。

 

私は、その人が幸せであることを「決めてしまう」ことによって、相手を「ゆるし」、同時に自分を「ゆるす」ことができたのだと思う。

 

こんな方法があったなんて。

 

 

 

 

 

「ゆるす」ことの意味が、ほんの少しだけわかったような気がしたのだった。

本当に、ほんの少しだけだけど。

 

 

 

 

 

世間さま と 自分さま

「世間」っていうものの一部として自分が存在している――

 

……なんていうのが一般的なものの見方だと思うけれど。そんな「常識」が当たり前にまかり通っているけれど。

 

でも、本当は、自分の中に「世間」がある。

 

そう、「世間」は、自分の一部にすぎないのだ。もっと言えば、自分が作り出したストーリーの中に「世間」があるだけなのだ。

 

いや、本当かそうでないかなんて、本当には分からないけれど。でも、その選択権が自分にあるのなら、私は後者のストーリーを生きていきたいな、と思った。

 

そっちの方が息がしやすいし、視界が開けるから。力が湧いてくるから。

 

「世間」を神さまにしちゃいけないな。「世間さま」ってなんだよ。

 

私は、「自分さま」を生きていく。

 

生きていきたいから生きていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※毎日更新する! と意気込んだは良いけれど、三日目にしてすでにこの短文……

 

脳が欲する食べ物と、身体が欲する食べ物って違うよね、って話。

昨晩21時過ぎぐらいにこってりとしたアイスクリームを買ってきて、家で食べた。別に全然おなかは空いていなかったのだが、なんとなくハイになって食べてしまったのだ。PCを観ながら、ほとんど味わうこともせずにガツガツガツガツ……。そのせいなのかどうなのか、昨日は胃が重くてなかなか眠れなかった。反省した。アイスを食べたこと、というより、雑に選んで、雑に買って、雑に食べてしまったことに。悪いことをした。これじゃあの子(アイス)も成仏できぬよ。

 

昨日はこのサイトのオープンもあり、めずらしく午後いっぱいインターネットの世界に遊んだから、それで脳みそが興奮していたのだと思う。さらなる刺激が欲しいような状態になって、それでコンビニに走ってしまったのだ。

 

常々考えているのは、首から上が欲する食べ物と、下が欲する食べ物って違うなあ、ってこと。脳と身体、というべきか。脳だけが欲していて、身体は「そ、それはいらないよ~」と叫んでいるようなものっていっぱいある。お酒とか、甘いものとか、乳製品とか、油ものとか。はい、全部大好物です。ガツガツ食べたらあとで肉体にも精神にあまり良くない影響が出ることは分かっていても、脳の欲求はすさまじく、一度それを自分に許可してしまうと、目の色変えて、乱暴に胃の中にものを押し込んでしまう。ほとんど「味わう」ということもしないままに。で、当然のごとく体調を悪くして落ち込む。自己嫌悪。そこから逃れたくてさらに刺激的な食べ物を求め……って完全なる悪循環ですね。「もっと、もっと」ってなるのは、本当には満たされていないから。逆に下手なりに自分で丁寧に作った料理を食べると、たとえそれが味噌汁一杯だけでも、ちゃんと味わって食べることができるし、食後、この上なく満たされたような気分になる。そこで完結できる、というか。

 

そう考えると、脳が欲しているものは、もはや「食物」じゃなくて、単なる「刺激物」なのかもしれない。それで、なんでそれらを求めてしまうかというと、「手っ取り早いから」のひとことに尽きると思う。ただ口に入れるだけで、手っ取り早く、なんらかの味わい=「しあわせらしきもの」が手に入るから。自分がすべきことは、食べ物を口に運び、噛んで、飲み込むだけ。簡単なのだ。

 

でも、それは「しあわせらしきもの」ではあっても、決して「しあわせ」そのものではない。それが証拠に、刺激物がもたらす幸福感は持続しない。口の中に入れて、飲み込むまでの一瞬の快楽。そして決して満たされるということがない。胃袋は満たせても心までは満たせないのだ。「快楽」と「しあわせ」はノットイコールだ。

 

「しあわせ」っていうのは、「これを食べたから」「それを買ったから」「あれをもらったから」って、そういうものでもたらされるようなものではない。「外側の条件に拠らない」っていうのが、本当の「しあわせ」の条件だ。なにがあっても、なにがなくても、「しあわせ」。それが一番強いし、それこそが本物なのだと思う。自分という存在の根っこの部分に関わる「しあわせ」。いま、ここにいる、自分という存在を全肯定できる「しあわせ」。内側からこんこんと泉のように湧き出てくる、決して尽きることのない「しあわせ」。それ以外はみな「しあわせらしきもの」に過ぎないような気がしている。

 

いま、ここで、存在そのものから来る「しあわせ」を感じる以外に、本物なんてないのだろうな。

 

……って、なかなかこれ難しくてですね、どうしたって一瞬の快楽に逃げてしまいがちなこの自分を如何せん、ですよ。本当にねー。日々是反省だ。別に「快楽」そのものがいけないわけじゃないし、たまには脳がよろこぶようなことをしなけりゃやってられないし、まあ全部加減の問題なんですけどね。食べ物の話に限らず、なんでもそうですけど。やりすぎず、適度に……って、人間の成熟度が試されるなあ! そして、いうまでもなく私はまだまだだなあ! いつだって身口意の一致をはかっていたいものです。あはは、ちょっと意味違うか!

 

とりあえず昨晩「快楽」を求めて雑に食べてしまったあのアイスクリームを供養しなくては。えー、アイスクリームさん、本当にごめんなさい。あなたの成仏を心よりお祈りして、般若心経を唱えます。ぶっせつーまーかーはんにゃーはーらーみーたーしんぎょうーかんじーざーぼーざーぎょうじんはんにゃーはーらーみーたーじーしょうけんごーうんかいくうどーいっさいくーやくしゃーりーしー――……

 

ちーん。合掌。(リアルぅ~)

 

この世界にあなたは関わっているの。どうしようもなく、関わっているのよ。

女子中学生のニコ(演:大後寿々花)は、友達になった殺し屋の三日坊主(演:中村獅童)を説得し、彼が、実は裏社会にも通じる骨董屋の女主人・マキ(演:浅丘ルリ子)を殺すのを、間一髪で阻止する。しかし、そのために三日坊主は殺し屋の組織から抹殺されてしまう。友達の死を知らされたニコはマキに詰め寄る。「もし、あたしに会わなければ、三日坊主はまだ生きていたかもしれないってことですか? もしあたしがテレクラに電話しなかったら、もしあの箱を拾わなかったら、もしあの角を曲がらなかったら、三日坊主はまだ生きていた……? だとしたら……あたしのせいだ……」愕然とするニコに、マキが厳しくも言い放つ。「そうよ。あなたのせいよ。」はっと顔を上げるニコに、マキは続ける。「だってあなた一人で生きているんじゃないもん。この世界にあなたは関わっているの。どうしようもなく、関わっているのよ。」

(『セクシーボイスアンドロボ』日本テレビ・2007年)

 

 

 

ありがたいご縁に導かれ、今春からハフィントンポストという大きな媒体で、ほぼ週一でブログ記事を書かせていただいている。しかも、実名、顔写真付きで。ここ2~3年、ほとんどネットの世界と無縁の生活を送っていた私が、突如として、不特定多数の人々の前に、武器にもならない未熟な文章ひとつ携えて、つまりほぼ丸腰とも呼ぶべき状態で、「エラヤチャエラヤチャ」と躍り出ることとなったのだ。なんとありがたいことだろう、南無読者仏南無読者仏南無編集者仏南無読者仏、ぶつぶつぶつ……などと念仏を唱えながら全方位に向けて手を合わせて頭を下げてまわりたくなるような、とても言葉にはできないほどの感謝の気持ちがある反面、恐くて怖くて逃げだしたくなるような気分も、また、しっかりと味わっている。

 

最初の記事をアップしていただいてからほぼ一週間、私の気分はジェットコースター並みの乱高下を見せ、泣いたり笑ったり怒ったりまた泣いたり、泣いたり、泣いたり……とにかく「不安定」の一言に尽きるような状態で、周囲の人々には随分とご迷惑をおかけした。先日アップしていただいたのが4回目の記事となるのだが、いまだにこの緊張感に慣れることはない。慣れることなんかあるのだろうか。慣れたらいけないんじゃないだろうか、とも思う。

 

文章をもって不特定多数の人々に自分の考えを表明するというのは恐ろしい作業だ。うれしい感想をいただくこともある一方、多数の反論もいただくし、私の未熟な文章そのものに対する批判だってたくさんいただく。毎日毎日、びくびくしながらそれを目にしている。書きたいことは心の中ではものすごくくっきりしているのに、技術がまったく追い付いておらず、ぼやっとした的外れな表現しかできないことに、自分自身、毎日毎日苛立っている。はっきり言って、泣きたくなるようなことだらけだ。それでも、文章を書くことには、そしてそれを誰かに読んでいただくということには、何事にも代えがたいようなよろこびがある。だってそれは、この取るに足らない私というちっぽけな人間が、それでもどうしようもなくこの世界に影響を与えているのだと知る、大きな手がかりとなるからだ。不遜なことを言いたいわけではない。私だけではない。生きとし生けるもの、みな必ず、この世界に、どうしようもなく、影響を与えているのだ。どうしようもなく、組み込まれているのだ。どうしようもなく、関わっているのだ。「すべて縁によって生じ、縁によって滅びる」とは仏陀の言葉だが、この世に存在している限り、縁の網目からとりこぼされることなど、決してないのだ。

 

自分が生きて、息をしているだけで、自分の想像もつかないようなどこかの誰かに、想像もつかないような影響を与えている。大なり小なり、必ず、影響を与えているのだ。それは考えれば考えるほど恐ろしいことではある。しかし、そこにしかないよろこびというものだって、また、確実に存在しているのだ。そのよろこびは、言ってみれば、「生」のよろこび、そのものだ。

 

書いても書かなくても、生きているだけで、ただ存在しているだけで、この世界に、どうしようもなく関わっている。だけど、そのことを知るためには、私は書かなくてはいけないのだ。逆説的であることは十分に理解している。だけど、そうでもしなければ気が済まないのだ。厄介な話ではある。業というやつだろうか。それとも、これも、縁に導かれてのことなのだろうか。

 

ご縁がある限り、私は、びくびくしながらも、ひっそりこっそりなにかを書き散らかして生きていくのだろう。……ということで、ご縁があってこちらのサイトを覗いてくださった奇特な方々におかれましては、今後とも、末永いお付き合いを賜りますよう、心からのお願いを申し上げます。どうぞ、どうぞ、よろしくお願いいたします! と、図々しいお願いをしたところで所信(初心)表明演説終わり! お読みくださってありがとうございました。

 

ちーん。合掌。

 

二〇一四年五月一八日 小出遥子記

 

©Yoko Koide