死者が見つめた72時間

毎週金曜日の22時55分から、Eテレで、「ドキュメント72時間」という番組が放映されている。私は普段、ほとんどテレビをつけない生活を送っているのだが、これだけは毎週録画して楽しみに観ている。別れの季節の巨大空港、真夏の巨大霊園、大都会の24時間営業の郵便局、新宿の巨大書店、日本最北端の岬、桜の季節の上野公園、風俗街の大衆食堂……毎回「これは!」と思うような、ちょっとマニアックなスポットに3日間密着して、そこを訪れる人々の人生の一部分を映し撮る、言ってみればそれだけの番組なのだが、それだけだからこそ、私はこれを好もしく思っているのだ。

 

映し出されるのは、なんてことはない、普通の生活を送る、「一般人」と呼ばれる人々の日常だ。通常なら「絵にならない」として切り捨ててしまうような場面を、カメラは差別することなく記録する。そうして、いざ、テレビのこちら側からそれらの場面を眺めてみると……そこには本当は無数のきらめくような瞬間が存在していたことに気づかされるのだ。もちろん編集技術の素晴らしさの上に成り立つものだとは思うが、私はこの番組を観ていると、「人が生きているって、もうそれだけでドラマなんだなあ!」なんて、それこそ安っぽいドラマの中のセリフみたいなことを思ってしまうのだ。

 

それはこの番組が、できるだけ、単なる「目」として、その場を映すようにしているからなんじゃないかと思う。ドラマを無理に作り出そうとしていないのだ。その場にあるものを、その場にあるままに、その場にたまたまあった「目」として、ただただ素直に映し出しているだけなのだ。ジャッジを含まない、公正な「目」。いや、もちろん番組だから、多少の作為はあるのだろうが(そして時折それを感じることもあるのだが)、それでも他の番組に比べれば、圧倒的にそれが少ない。「神の視点」に近いところから撮られた番組だと思う。ってちょっと褒めすぎか。

 

注文していた結婚指輪を深夜の郵便局まで受け取りに来た役者志望の男性、生き方の軸となるものを探しに巨大書店をうろうろする失業中の青年、満開の桜の樹の下で「十日前に離婚したばかりなんですよ」とつぶやく中年女性と、「いろいろあるさ」とお酒で笑い飛ばす仲間たち、仕事終わりに朝っぱらから一人で4時間もお酒を飲み、最後にはラーメン鉢に頭を突っ込んで眠ってしまった還暦の男性……。全然美しくなんかない、寂しくて悲しくてすえた臭いのする、街で実際にすれ違ったら思わず目を背けて見なかったことにしてしまうだろう、そんな人々の生活のくだらない一場面。だけど、どんなに「くだらない」場面だって、神さまのいるところから見れば、きっとすべてが美しく、愛おしく思えることだろう。「神の視点」はそのまま「死者の視点」に言いかえてもいいかもしれない。死んだ人から見れば、生きている人たちのあれやこれやは、そのすべてが、善も悪も清も濁も苦も楽も山も谷もぜんぶぜんぶひっくるめて本当にすべてが、とてつもなく愛おしく思えることだろう。肉体を持ったままにそんな視点からこの世を眺めて生きていきたいものだが……それがなかなか難しいから、私は毎週この番組を観るのだろうな、なんてことを思う。

 

なんだか全体的にNHKの回し者のような文章になってしまったが……。ちなみに私が観たいのは四国の遍路宿の72時間。スタッフさん、いかがですか?

 

「今日も機嫌良くやんなさいよ」

タイトルは、映画『マザーウォーター』の中の、マコトおばさんのセリフ。いつだって機嫌良くいられるって、人間として最高のことだと思うのだが、機嫌良くいる秘訣は、機嫌良くいることを「選ぶ」ことなのだと、最近身にしみて実感している。

 

機嫌の良し悪しは、いつだって自分で選択できる。いま、この瞬間にも選択できる。これ、意外に知られていないけど、事実なんですよ……!(って私誰だ!)

 

「おいしいものを食べたから」「欲しかったものが買えたから」「いい天気の日に洗濯物を干せたから」「恋人がいつも以上にやさしかったから」……だから機嫌がいいのは当たり前。当たり前? そうかもしれない。だけど、機嫌が良くなるのはそんな時だけ、っていうのは、ちょっとつまらないなあ、と思うのだ。

 

「注文した料理がおいしくなかったから」「欲しかったものが売切れだったから」「せっかく干した洗濯物が雨に濡れたから」「恋人と喧嘩したから」……だから不機嫌になるのも当たり前。……当たり前? 本当に? いや、本当は、そんなときでも「機嫌良く」いることはできるのだ。なかなか難しく感じられるかもしれないが、決して不可能なことではない。

 

たとえば形から入る方法がある。心と身体はめちゃめちゃわかりやすくリンクしているから。「機嫌良く」いることを決めたら、背筋を伸ばして、おなかから深く息を吐いて、すっと吸って、無理やりにでもにっこり微笑む。それだけで視野は広がる。心は落ち着く。機嫌は上を向く。単純なものだ。

 

「おいしいもの」とか「欲しいもの」とか「天気の良し悪し」とか「恋人の行動」とかは、全部自分の外側にあるもの。偶発的にやってきたもの。それらにいちいち自動反応して、自分の機嫌を無意識のうちに決めてしまうのは、なんというか、すごく人任せだし、疲れる一方なんじゃないかなあ、と思うのだ。

 

本当は外側の条件には関係なく、いま、ここで、機嫌良く生きていける道を選ぶこともできる。なのにそれをしないのは、機嫌を悪くしていたら、いつか誰かが助けてくれるのではないかって甘えているから。赤ん坊と一緒だ。自分の気分に、もっと言えば人生に、責任を持ちたくないのですね。でも実際、機嫌悪くスネ続けている人間を助けるほど、みんな暇ではないのだ。これね、自分の来し方を省みて書いてるんですけど、本当ですよ……。いい歳した大人がすべてを外側のせいにしてスネちゃまになったところで、いいことなんかひとつもないんですよ……。あの頃、だーれも助けてなんかくれなかったですよ……(涙)

 

誰も助けてくれないのなら、いま、ここで、機嫌良くいられるように、自分で工夫するしかないのだ。その覚悟ができた人から、機嫌の良い人生を送れるようになるのだと思う。本当はめちゃめちゃ単純な話なのだと思う。

 

機嫌良くいるのは簡単なことだ。そう決めてしまうだけでいいのだから。

 

 

 

さて、月曜日。今日からまた一週間、機嫌良くやっていきましょう!

 

いかれたBaby

京都の太秦というところに広隆寺というお寺があって、そこに日本の国宝第一号となった美しい弥勒菩薩の像がある。口元に微かな笑みを浮かべ、右手をそうっと頬に添えて、片足を膝の上に載せて思惟にふけっていらっしゃるそのお姿はあまりにも有名だ。中学や高校の社会の歴史の授業で写真を見たことがある方も多いだろう。

 

私自身、この弥勒さまが大好きで、京都に出かけた折には、できるだけ太秦まで足をのばすようにしている。清潔な宝物館の中で、過不足のない上品なライトに照らされたその細い体躯は、しかし、いつ見ても圧倒的な存在感で、気がついたときには弥勒さまの前で滂沱の涙と鼻水を流して懺悔、懺悔、懺悔、そして感謝、そしてまた滂沱の涙アーンド鼻水、ついでによだれ、よだれ、よだれ、このよだれでねずみぐらいあっという間に描けちゃうよ! なーんて事態に陥ったことも数知れず……。とにかく、愛しちゃってるんです。思わずがばと抱き付いて指の一本や二本も折りたくなってしまうほど……! (昔、実際にそういうことがあったみたいです……。)とにかくとにかく、私のスーパースターなのだ。好きが昂じて、ついには顔がそっくりになってしまったと言われることも多々……いや、嬉しいです……。

 

弥勒菩薩は未来仏とされている。お釈迦さまが入滅してから56億7千万年後、この地上に降り立って、我々衆生をことごとく救済してくださるのだとか……。ご、ごじゅうろくおくななせんまんねん……。これってつまり、「未来永劫来るつもりはないよー」ってことなんじゃないの!? 現世に生きる我々はどうなる!? 私たちは救ってくれないってのかい!? ええッ!? と、思わずスーパースターに向かって詰め寄りたくなってしまうが、そうではないのだ。だって現に、私は、弥勒さまのお像を見て、毎回救われているのだ。

 

あの独特なポーズは、「未来に、この迷える衆生を、どうやって救おうか……」とじっとお考えになっている姿なのだ。即座に手を差し伸べて、現実的に救ってくれることはなくても、ただただじっと考えて、考えて、考えて……。その姿だけでもう、有難いのだ。十分に力を与えてもらっているのだ。

 

自分を救ってあげられるのは自分だけ。誰かに現実的な手助けをしてもらうことがあっても、最終的な解決への道は、いつだってたったひとり、自分だけの旅路になるのだ。誰も代わってくれることはない。それでも、どこかで誰かが、いま、この瞬間にも、全力で、自分のことを考えてくれている、心の底から想ってくれている……。その事実を知ることは、自分をなによりも励まし、力づけてくれると思うのだ。これは仏に限らず、人間だってそうだ。どこかで、誰かが、いま、この瞬間にも、自分のことを想ってくれている。心の底から想ってくれている。ただもうそれだけで、光に向かって歩んでいく勇気がわき出てくる。たったひとりの旅路でもさみしくなくなる。大丈夫だと思える。逆に言えば、他人に対してできることなんて、ただ、「想う」ことだけなのかもしれない。でも、きっと、それでいいのだ。それで十分なのだ。弥勒さまは、私にそう教えてくれたのだった。

 

 

 

 

 

人はいつでも見えない力が必要だったりしてるから

悲しい夜を見かけたら君のことを思い出すのさ

(フィッシュマンズ「いかれたBaby」より)

 

南無阿弥陀仏

先日、東京・増上寺で行われた、僧侶の、僧侶による、人民のための(?)寺社フェス・「向源」なるマニアックなイベントに出かけてきた。これがもう楽しくて楽しくて! 仏教を身近に感じられる、素晴らしいイベントだった。主催者の方々、お疲れさまでした。そしてありがとうございました。この場をかりてお礼を……。で、この「向源」、写経体験、坐禅体験、お守り作りワークショップなど、興味深い催しが目白押しだったのだが、私が体験したのは、浄土宗東京教区青年会による「念仏礼拝ワークショップ」。約一時間、薄暗い畳の部屋で、お坊さんの丁寧な手ほどきのもと、30名ほどの参加者と一緒に、ひたすらに木魚を叩いて「南無阿弥陀仏」をとなえ、五体投地を繰り返した。

 

はじめのうちは、その光景のあまりのシュールさに込み上げる笑いを抑えるのに必死だったり、五体投地のたびに大きく開いたワンピースの胸元からお見苦しい何かがポロリしやしないかと気が気じゃなかったり、なんにも悪いことなんかしてないのにひたすらにバチで叩かれ続けるだけの木魚の一生に涙を禁じ得なかったり……と、まあ、なかなか集中できたものではなかったのだが、ある瞬間、ふいにスイッチが入ったのだった。いわゆる(?)「念仏ハイ」ってやつが訪れたのである。

 

南無阿弥陀仏をとなえ、五体投地を繰り返すいまが、ものすごく自然なこととして感じられてくるような……。この瞬間、この空間以外に世界など存在しないといった気分になるような……。「南無阿弥陀仏」をとなえたり、五体投地を繰り返したりしているのは、もはや「自分」という存在ではないといった気分になるような……。「自分」という主体がまったく消えてしまって、まったくからっぽになってしまって、もっと大きなものと一体となって、そこにあるのは、ただひたすらに、「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」……

 

「となふれば仏も我もなかりけり南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」(一遍上人)

 

……一遍! 超わかるよ一遍! あんたうまいこと言う! 最高だ! と鎌倉時代の高僧に向かって馴れ馴れしくも呼びかけて、その肩をばしばし叩きたくなってしまうほどに、上記の句が身にしみてわかるような、不思議で貴重な体験であった。一緒に体験した妹も「一瞬、トランスっぽくなった」と言っていた。仏も我もなかりけり。念仏の意義を見たり! な、素敵なワークショップだった。(次の日、全身筋肉痛でしたけど……。「五体投地で……」と言ったら職場の人に怪訝な顔されましたけど……。そりゃそうだ。)

 

末法の世に念仏が大流行したのは、「来世に極楽に往生せんがため」だったのだろうが、そしてそれはその時代には必然だったのだと思うが、現代に生きる我々が念仏をとなえるのは、「いまを生きるため」という目的が大きいと思う。いま以外に世界などないのだ、過去も未来も幻想なのだ、そのことを知るための「南無阿弥陀仏」。それを知って、いま、ここに足を着けて、はじめて、本当の「生」がはじまっていくのだと思う。流行りのホ・オポノポノなんかも、これと同じ原理なんじゃないかなあ、と仮定している。

 

「念仏とは、仏を想うことです。念仏の念という字は、今の心と書きます。現時点でしていることに心を置き、そこに仏を感ずるなら、それこそが最良の念仏となります。」

(町田宗鳳著『法然・愚に還る喜び ―死を超えて生きる―』2010年 NHK出版)

 

いましていることに心を置く……。なにもひたすらに念仏をとなえたり、「ありがとうごめんなさいゆるしてくださいあいしています」を繰り返したりしなくても、いや、これらは確かにものすごくすぐれた手段なのだが(私もことあるごとに南無阿弥陀仏やらあいしていますやら繰り返している……)ただ、いま目の前にあることにひたすらに心を尽くすだけでも、十分に、というかそれこそが現代における「念仏」になるのだ。瞑想は行為ではなく状態、とはよく聞く話だが、念仏も行為ではなく状態なのだ。集中して集中して集中して……集中している「自分」すら消えたところに、「いま」という世界が広がっているのだろう。そしてその「いま」という世界こそが、「仏」の世界なのだろう。そして私たちは、仏の世界を、現世で、この肉体を持ったままで、生きることだってできるのだ。私はそこを生きていきたいなあ、と思う。

 

南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。ちーん。合掌。

 

「今日も、ラジオ体操がはじまります!」

今年のお正月から、毎朝の日課にラジオ体操を組み入れた。お遍路さんを始めて、自分の体力のなさにあらためておののくこととなったからである。DVDやネットじゃなく、昔ながらの小型ラジオをNHKの周波数に合わせ、朝の6時半から「おいっちにー」と真面目にやっている。第一体操、第二体操、合わせてたった10分ほどだけど、真剣にやれば少し汗ばむぐらいの運動量になる。朝に運動をするのは気持ちがいい。「健やかな人」ってやつに、自分がなったような気がする。

 

私は毎朝3~4時に起きて、白湯を飲んだり瞑想したりしたあとに、机に向かって文章を書きはじめる。ちょうど疲れて身体を動かしたくなった頃に、ラジオ体操の時間がくるのがありがたい。だいたいいつも6時25分過ぎに机の隣の棚の上に置いたラジオのスイッチを入れる。天気予報と交通情報が終わると、アナウンサーの、「この後はラジオ体操です」という声が入り、♪チャッチャッチャララー と、おなじみのラジオ体操のオープニング曲が流れてくる。そこでおもむろに立ち上がり、姿勢を正して首を回し、腕を伸ばすなどして、体操の下準備を始めるのだ。

 

その日も、いつものように作業をしつつ、交通情報を聴き流し、さて、そろそろ……と椅子から腰を浮かせた、その瞬間だった。ラジオの中の女性アナウンサーがこう言ったのだ。

 

「時刻は間もなく6時半になります。今日も、ラジオ体操がはじまります!」

 

一見(一聴?)していつもと変わらない言葉だったが、そのほんの少しの違いに、私は「はっ」としたのだった。女性アナウンサーの声は高揚していた。その言葉はよろこびにあふれていた。いや、そう聴いたのは私だけかもしれない。どちらでもいい。とにかく私は、「今日も、ラジオ体操がはじまります!」の一言に、どういうわけか、とてつもない「よろこび」が肚の底から湧き上がってくるのを感じて、不覚にも涙をこぼしてしまったのだ。

 

そうか。今日も、ラジオ体操をはじめられるのだ。ありがたいな。

そんな風に、素直に思ったのだ。

 

毎朝、早起きをさせていただいていること。

文章を書かせていただいていること。

ラジオ体操をさせていただいていること。

好きなことを、好きなように、好きなだけ、させていただいていること。

そのすべてを、やらせていただいていること。

いま、ここで、このからだで、やらせていただいていること。

 

すべてが、とてつもなくありがたいものとして、私の胸に迫ってきた。なにひとつ、当たり前ではないのだと思った。

 

♪あーたーらしーいーあーさがきた きーぼーうのーあーさーだ よーろこーびにむねをひーらけ あーおぞーらあーおーげー ラジオ体操の歌を聴きながらほんの少し窓を開けると、生暖かいような春の雨の匂いがぼわっと入りこんできた。生きている、生かされている―― 雨と涙に煙った視界の向こうに、木々の緑、花々の色彩をまぶしく感じながら、私はただただ、「歓喜」と呼ぶしかない感情に包まれていた。

 

……たかだかラジオ体操ぐらいで大げさだろうか? でも、ほんの時折こういうことがあるから、人生はやめられないのだ。その瞬間は予測できないし、コントロールして起こすこともできない。それはほとんど無意識で、なんの期待もないときに、突然、祝福のようにしてやってくる。こちら側とあちら側(ってなんだ? 神さま? 仏さま? 宇宙さま? アヤシイですねー)の準備が、双方向整ってはじめて、「よろこび」ってやつはやってくるのだ。

 

無条件の「よろこび」。存在そのものを大肯定する「よろこび」。

 

生かされてある「よろこび」を感じながら、私は今日もラジオのスイッチを入れるのだ。

 

©Yoko Koide