死なない、ということ。

「死んだら、死んだのよ。このりすは、そのうち土になるでしょ。やがて、そのからだの上に木がはえて、あたらしいりすたちが、その枝の上ではねまわるわ。それでもあんたは、かなしいことだと思う?」

「たぶん、そうは思わないだろうけど」

といって、ムーミントロールは、鼻をかみました。

(トーベ・ヤンソン著、山室静訳『ムーミン谷の冬』講談社文庫 より)

 

 

 

今年も雨の季節がやってきた。雨をうっとうしいだけのものと思わなくなったのはいつの頃からか。子どもの頃は、雨は完全なる「敵」だった。歳を重ねるにしたがって、人生から少しずつ「敵」が消えていくのなら、それはきっと、生き方として間違ってはいないのだろう。「敵」なんてものは自分が勝手に作り出した幻想にすぎないからだ。

 

昨日の午後のこと。濡れた地面から舞い上る、つんとしたような、それでいてぼわんとしたような、なんとも独特な匂いを鼻の奥の粘膜に感じながら、私はふいに、数年前の出来事を思い出した。あれは夢なんかじゃなかった。いまでもそう思う。

 

 

 

先日書いた、私の大好きな弥勒さまのいらっしゃる京都太秦の広隆寺から、徒歩で20分ほど行った花園という地区に、法金剛院という小さなお寺がある。ここは「花園」の名の通り、花のお寺として有名で、境内には蓮を中心としたありとあらゆる種類の花木が植えられていて、季節ごとに色彩に溢れた光景を楽しめるのだった。私は過去数回、このお寺を訪れている。最後にお参りしたのは、ちょうど今日のような、激しい雨の降りしきる日だった。

 

法金剛院の仏殿には丈六(お釈迦さまの等身大。坐像で3メートル弱)の阿弥陀さまがいらっしゃる。そこは靴を脱いで上がるようになっていて、畳に直に腰をおろして、その巨大で美しい阿弥陀さまと対峙することになる。

 

その日、どうも私は疲れていたらしい。降りしきる雨が地面を打つ音だけが響く、人気のない仏殿で正座をして、心静かに阿弥陀さまと向き合って数分、私は、どうしたってまぶたが下りてきてしまう自分を発見したのだった。抗いがたい眠気だった。どうしよう、眠い……。せっかく大好きな阿弥陀さまの前にいるのに、寝ちゃうなんてもったいないし、失礼だ……。でも、どうしたって、あまりにも、眠い……。まあ、いいや、たまにはこんなこともあっても……。阿弥陀さまもゆるしてくれるでしょう……。ちょっとだけ休ませてもらおう……。阿弥陀さま、失礼します……。正座の姿勢のまま、本格的に目を閉じ、うつらうつらし始めて、どのぐらいが経った頃だったのだろう。

 

ふいに、閉ざしたまぶたの向こうが、まぶしく光り始めたような気がした。え……? と思っているうちに、私は一気に仏殿の外に出ており、降りしきる雨と一体化していた。自分が、雨、そのものとなっていたのである。そこに「小出遥子」という人格は存在していなかった。私は、雨だった。雨、そのものだった。

 

雨の一粒一粒となり、まったく自然なものとして空を駆け、木を打ち、葉を打ち、地をうち、しみこみ、植物の根に吸われ、茎を通って葉の一枚一枚に行き渡り、花を咲かせ、やがて……

 

そこで、「はっ」と目を覚ました。

 

私は、またもとの「小出遥子」の肉体に戻っていた。静かな仏殿で、正座をして、阿弥陀さまと向き合っていた。雨の音が、聴こえた。自分とは、別の存在のものとして、聴こえた。肉体が、やけに重く感じた。手が、足が、頭が、自分のものとしてあることが、不思議だった。

 

いまのは、夢……? 問いかけても、阿弥陀さまは答えてはくれなかった。夢にしては、やけにリアルだった。私は確かに、雨となって、土となって、花となった。いや、正確に言えば、この世のすべてになった。「すべて」の表れとしての、雨、土、花……。それらはまったくもって「別個」のものではなかった。一切が、分かたれていなかった。「分離」の対極にある世界を、垣間見てしまったのだ。

 

夢なんかじゃなかったのだと思っている。むしろ、いま生きている、この「現実」こそが、夢なんじゃなかろうか、なんてことも思ったりする。

 

分離のない世界は、あまりにも自然で、あまりにも広大で、あまりにも抵抗がなく、あまりにも……やさしかったのだ。

 

そのすべてが、あまりにも、「本当」だったのだ。

 

 

 

阿弥陀如来の別名は「無量寿如来」。直訳すれば、「無限のいのちを持つ如来」ということだ。私はそのときまで、「ふーん、阿弥陀さまってめっちゃ長生きなんだね~」ぐらいにしか思っていなかった。阿弥陀さまという、自分とは別個の存在がいると思っていたのである。その存在「が」無限のいのちを持っている、と。無限のいのちを生きる主体は、「阿弥陀さま」という、「自分ではない」存在なのだと、そう思っていたのである。

 

でも、それはまったくの勘違いだった。

 

無限のいのちを生きているのは、私自身だった。いや、生きとし生けるもの……この世に存るすべてが、無限の「いのち」を生きていた。

 

というか、無限のいのち、そのものだった。常に形を変えて、循環していくいのち。私たちは、それ、そのものなのだった。

 

「形」としての寿命はあるかもしれない。人間だったら、肉体の終了をもって、「死」を迎えた、ということになるのだろう。しかし、「いのち」そのものに寿命はない。私たちは何度でも形を変えて、いま、ここに、あり続ける。まさに「無量」の「寿命」。私たちはみな、それを生きているのだ。

 

いや、無限の「いのち」が、私たちを生きているのだ。阿弥陀さまが、私たちを生きているのだ。

 

阿弥陀さまは、私たち、そのものだったのだ。

 

 

 

「死んだら、死んだのよ。このりすは、そのうち土になるでしょ。やがて、そのからだの上に木がはえて、あたらしいりすたちが、その枝の上ではねまわるわ。それでもあんたは、かなしいことだと思う?」

「たぶん、そうは思わないだろうけど」

といって、小出遥子は、鼻をかみました。

 

 

 

南無無量寿如来。

 

南無円空仏。南無ウサギ仏。

猿、狐、兎の3匹が、山の中で力尽きて倒れているみすぼらしい老人に出逢った。3匹は老人を助けようと考えた。猿は木の実を集め、狐は川から魚を捕り、それぞれ老人に食料として与えた。しかし兎だけは、どんなに苦労しても何も採ってくることができなかった。自分の非力さを嘆いた兎は、何とか老人を助けたいと考えた挙句、猿と狐に頼んで火を焚いてもらい、自らの身を食料として捧げるべく、火の中へ飛び込んだ。

(Wikipedia「月の兎」項目より抜粋)

 

 

 

この話を幼い頃に聞いて、心に深い傷を負ったのは私だけではあるまい。一体なんなのだ、この話は。ウサギが可哀想すぎるではないか。老人も他の2匹の動物も可哀想すぎるではないか。救いがなさすぎるではないか。最後にウサギが月に転生するにしたってひどすぎる。なんでこんな理不尽な話が童話としてまかり通っているのか……。自己犠牲の精神を謳った物語なんてくだらなすぎるし、まっぴらごめんだ! なんて思っていた。……本当に、つい最近まで。

 

私は、なにもわかっていなかったのだ。

 

 

 

一年半ほど前に、東京で大規模な円空展が開催されていた。円空は江戸時代の仏師。全国を行脚しながら、生涯に約12万体もの仏像を彫ったと言われているお坊さんだ。彼の彫った仏さまは、みな、やけにざっくりとした野性味に溢れており、一見して「私にも彫れそう……」なんて思ってしまうほどのド・シンプルな形状をしている。でも、どの仏さまも、強い個性を持ちながら、みな、どことなく笑っているような、やさしい表情をしているのだ。

 

その展覧会には、「三十三観音立像」の名称がつけられた、丸太を細く何等分かしたものの表面にさっと表情をつけただけ、といった風情の仏像が並べて展示されていた。本当は名前の通り33体あったようなのだが、現存するのは31体のみ。残りの2体は、近隣住民に貸し出したきり、戻って来なかったのだそうだ。学芸員さんはこんな風に解説していた。

 

「削られて薬にして飲まれてしまったか、もしくは、飛騨は寒い地方ですからね(その展覧会には、主に岐阜県の円空仏が展示されていた)、薪としてくべられてしまった可能性もありますね。形も、ほら、なんだか薪っぽいですしね……。」

 

一緒に解説を聞いていた人たちは「まあ、仏さまも大変ねえ」などと言って笑っていた。そんな中、私はひとり、涙をこらえるのに必死だった。その時、私の頭の中には、飛騨地方の人々に一瞬の暖を与えるために薪として火にくべられたその一体の円空仏の図が、ものすごくリアルに浮かび上がっていたのだった。

 

鮮やかな橙色の炎に身を焼き尽くされながら、それでも仏さまは微笑んでいた。最後の最後まで、ひどくやさしく、そして、泣けるほどに力強く、微笑んでいたのだ……。

 

一粒目の涙をこぼしてしまった瞬間、私はまったく唐突に、幼い時分に聞いた例のウサギの話を思い出したのだった。そして突如として悟ったのだった。

 

「ああ、あのウサギは、本心から自分の役割を果たしただけだったんだ。それならばきっと、熱くなかったし、痛くなかったし、辛くも、悲しくもなかったんだろうな。ただただやさしい気持ちに包まれていたんだろうな。ウサギはきっと、炎の中で、最後の最後まで、微笑んでいたんだろうな……」

 

 

 

おそらく……ではあるが、そのお話に出てくるウサギは、薪としてくべられた円空仏同様、ブッダ(悟りを開いた存在)そのものだったのだろう。

 

「悟り」は「差」「取り」だという話を聞いたことがある。「差」=「個体間の違い」を一切取り去ったところにある、自分も他人もない世界。たったひとつの、大きないのち。私たちは、ひとり残らず、いまだって、まったく同じ世界を……たったひとつの同じいのちを生きている――

 

ウサギはその世界(いのち)を、自覚をもって生きていたんじゃないだろうか。だからこそ迷わずに火の中に飛び込めたのではないだろうか。彼(もしくは彼女)は、その時、その場で、もっとも必要とされた行動をとったに過ぎない。それがたとえ、肉体の消滅を意味するのだとしても、それでも迷わず、ただ一心に、自分の役割をまっとうした……。

 

だって、本当は、自分も他者もないのだから。他者のために死ぬことは、つまり自分を生かすこと、そのものなのだから。

 

ウサギは本気でそう思っていたに違いない。

 

これは「自己犠牲」なんていうちゃちでケチくさい話なんかじゃなくて……。ただただ他人を生かすことが、まったくのイコールとして、自分を生かすことになる、そんなやさしい世界のお話なのではなかろうか。ブッダ(ウサギ)は、そんな世界を、ただただ生きて、そして、死んでなお生き続けているのではないだろうか。

 

他人のため、は、自分のため。これは決して説教くさい意味じゃなくて、まったくもってそのまんまの意味としての、まっすぐすぎるほどにまっすぐな言葉だと思うのだ。他人も自分もない「差」「取り」の世界では、他人を生かすことは、そのまんま、自分を生かすことになるのだ。そして、すべての存在は、本当はそんな世界を生きているのではないだろうか。ただ、見ないように、気づかないようにしているだけで……。

 

ウサギは、身をもって、私たち人間にそのことを気づかせようとしてくれたのではなかろうか。

 

 

 

ただ、まあ、なにも死ぬことはないでしょうウサギちゃんよ、とは思いますけどね。物語はいつだって極端だ。でも極端にしないことには、こんな「荒唐無稽」な「教訓」は伝わりづらいのだろう。それでも、結局、その本来の意味が心に伝わってくるまでに、私には二十年以上の歳月が必要でしたけどね。そしてこの解釈だって完全に個人の勝手な解釈ですけどね! でも、橙色の炎に包まれた一体の円空仏と一羽のウサギの最後の微笑みは、いま、この瞬間も、確かに、私の心をやさしく暖めてくれているような気がするのだ。円空仏もウサギも、死んでなお、私の中で生き続けているような気がするのだ。それは本当のことなのだ。

 

 

 

南無円空仏。南無ウサギ仏。

 

塩日本酒風呂のススメ

長時間インターネットの世界に遊んでいると、なんだか体の前面にピリピリとした泡のようなものが付着するような気がしてくる。肩の位置が上がってくる。自分が上半身だけの生き物になったような……もっと言えば胸から下をどこかに置き去りにしてきてしまったような……そんな感覚に襲われる。

 

ネットは便利だし、ものすごく楽しい。刺激は強いし、そこに夢中になることはカンタンだ。だけど、気をつけて自分でルールを決めて付き合わないと、一気に波に飲まれてしまう気がする。この世界は情報に溢れすぎている。良くも悪くも。

 

これは情報に限らないが、「入れ」すぎると、人は、本来自分が持っていたものを見失ってしまう。見失うから自分を信用することができなくなってしまう。自分を信用できないから外側のなにかをさらに求めてしまう。入れすぎるからまた自分を見失う。心身には「良からぬもの」が溜まる一方。完全なる悪循環ですね……。

 

定期的に「出す」ことをしないと、どうにかなっちゃうよ、現代人!

 

たまには携帯電話を自宅に置いて、PCもないような緑豊かな山奥の温泉にでも浸かりにいって、ありとあらゆる電子情報から離れて、自分ってもんを静かに見つめ直したいものだ……なんてことを思っても、まあなかなか実行に移せず……。でもそろそろそういうことでもしないとぱんぱんに膨れ上がって爆発しちゃうよ~! ってときに、意識してPCから離れること以外に私がやるのが、大量の塩と日本酒を入れたお風呂に長時間浸かること。お湯はみぞおちより下ぐらいの少な目の分量で。半身浴ってやつですね。これ、ものすごくオススメです。じゃんじゃん出ていく感じがします、「良からぬもの」が。塩は天然塩を使ってください。私は一気に3掴みぐらい入れています。日本酒はスーパーで売られている安いパック酒で十分です。ただし「純米酒」を選ぶのがいいと思います。500ミリリットルぐらいじゃぶじゃぶ入れます。でもお酒に弱い人はご自身の裁量で加減してくださいね。私は、まあ、弱くはない方なので……。

 

塩も日本酒も古来からある浄化ツール(この言い方もアヤシイですね~)だし、お風呂はただ浸かるだけでも疲れを取ってくれる場だし、トリプルの効果で、ものすごーーーく「出て」いきます。一時間も入れば完全に生まれ変わったような気分になれます。付着していたピリピリ泡も取れて、めちゃめちゃスッキリします。情報に埋もれていた本来の自分がコンニチハします。自分の輪郭がはっきりして、息がしやすくなります。

 

ちなみに、心身に色んなものを溜め込んだ状態でこのお風呂に入ると、お湯がてきめんに濁ります……。以前、失恋直後でやさぐれの極みにいた我が妹をこのお風呂に漬けてみたところ(←この言い方!)透明でサラサラしていたはずのお湯が、ものの30分で、ドロドロヌメヌメのブルーグレーの液体へと変化をとげました……。ひぃぃ。塩日本酒風呂、恐ろしい子ッ! というか恐ろしいのは妹が溜め込んだ毒の方か!? と驚き呆れつつも、しかし、うーむ、心身一如って本当のことなんだなあ! と激しく感心してしまった出来事でもありました……。でもあれ、本当にいま思い出してもぞっとする光景だったな……。

 

「外側」のものを入れすぎてぐったりしているときに、食や酒や新しい洋服やSNSなどの「外側」のものに助けを求めても、結局余計に疲れるだけだったり……。本当は、出して出して出しまくって、「内側」に目を向けて、そこに本来の自分を見出して認めて抱きしめてあげるのが、疲れからフリーになる一番の方法なんじゃないかな、と思っている。というか自身の経験から実感している。自分を癒せるのは究極的には自分しかいないのだ。

 

塩日本酒風呂、よろしければ、一度、是非。温泉に行くよりお金もかからないし。気持ちいいですよ~。以上、普通のお役立ち情報でした……。

本当のやさしさって?

四国八十八箇所を徒歩で巡礼するというのは、普段まったく運動をしない私にとって、肉体的にものすごくハードなことで、時折、もう本当に「ここから一歩も動けません……」と泣き出したくなるほどの暴力的な痛みに襲われたりする。実際に目の際からじわじわと涙をにじませてみたりすることだって、正直(結構な頻度で)ある。それでもこれまでなんとか歩き続けることができているのは、ひとえに、道端の木々や花々の励ましあってのことである。

 

生い繁った緑の葉っぱが私の肌を直射日光から守ってくれたり、心地よく吹き渡る風の存在を触覚だけでなく視覚や聴覚をも使って伝えてくれたり、ふんだんに酸素を放って私の荒い呼吸をなだめてくれたり、どっしりとしたその存在感をもって「いま」に私の心を戻してくれたり……。木々にはマイナスを包み込んでくれる癒しのエネルギーがある。対して花々が持つのは前向きな希望のエネルギー。目にも鮮やかな花びらの色彩、それをそよ風に繊細にふるわせる可憐な姿、少女の朗らかで高らかな笑い声が聴こえてきそうな野花の群生地帯には、もうその脇を歩かせてもらうだけで、自分の心にも「ほわっ」「ふわっ」と花が咲いたようになるほどの力がある。あと少しだけがんばってみよう、と素直に思える。

 

南無木々仏……。南無花々仏……。

 

木々や花々のすごいところは、これほどまでに私たちに力を与えてくれているというのに、本人(?)たちは、人間を「癒してあげよう」「励ましてあげよう」なんてことは、おそらく、これっぽっちも思っていないだろうということ。「いまあの場所を歩いているあの人のために葉を繁らせて日陰を作ってやろう」と思ってそうしているわけではない。彼らはただただ自分の根付いた場所で日光を浴び、雨水を吸い上げ、枝を広げ、葉を繁らせ、花を咲かせ……しているだけである。木はただ木をやっている、花はただ花をやっている。その姿にこっちが勝手に癒されたり励まされたりしているだけなのである。

 

ああ、これこそが、「本当の」やさしさかも……。

 

無意識のやさしさには作為がない。当然、押しつけがましさもない。それゆえ、受ける側に気を遣わせることがない。こちらもそれと知らずに力をもらえる。双方向のエネルギーの流れに無理がないのだ。

 

その存在が、その存在そのものとして存在しているとき、そこにはとてつもないエネルギーが生まれる。そのエネルギーは、それ自体が「他を利する」質を持つのだと思う。

 

絵の得意な人が絵を描くとき、歌が得意な人が歌を歌うとき、その根源にある動機に、「他者」が入り込む余地はないだろう。本人たちは、ただ「描きたくて」、「歌いたくて」、それらをやっているはずなのだ。ほとんど、「なにか」に突き動かされるようにしてやっているはずなのだ。その「なにか」は、私たち人間をこの世に送り出したエネルギー、そのものなのだと思う。「作品をもって人々を励ましていきたいから、描きます/歌います」なんていうのは、言ってみれば後付けの理由に過ぎないんじゃなかろうか。どうしようもなくそれをやりたくて、「やりたい」ことを意識する間もなく、ただ、やってしまう。手が動いてしまう。声が出てしまう。そっちが本当なんじゃないかな。そうやって生み出されたものこそが、人の心に、本当の意味での「やさしさ」として、力強く伝わっていくのだと思う。「無私」の心が人を癒すって、こういうことなんじゃないだろうか。

 

実際に目の前に困っている人がいたら、たとえば傷の手当をしてあげる、とか、なにかを食べさせてあげる、とか、話を聞いてあげる、とか、現実的な手助けをすることはもちろん必要だ。でも、相手の心に真実のやさしさを届けるのには、あとはもう、それぞれの人が、それぞれの存在そのものとして、そこにいるだけで良いのだと思う。瞬間瞬間、自分が本来の「自分」からズレないように行動するだけで良いのだと思う。無理に「○○をしてあげよう」なんて思わなくて良いのだと思う。ただただ自分が突き動かされるように「思わずしてしまった」ことを淡々ときわめていけば良いだけなのだと思う。絵や歌じゃなくても、たとえば丁寧にお茶を淹れるとか、道端でゴミを拾うとか、職場ですれ違った人みんなに笑顔で挨拶するとか……。世間がやれと言うから、とか、それが良いこととされているから、とかじゃなくて、ただただ自分が「やりたくて」「思わず」やってしまうようなこと。そこに、その存在の本質があるのだと思う。それを無心でやっているときだけ、「やさしさ」は発露されるのだと思う。

 

すべての存在はみな、「やさしく」作られているのだ。

みな、そのままで、「他を利する」ように作られているのだ。

あの人だって、その人だって、きっと、私だって。

きっと。

 

 

 

四国の田舎道で木々や花々に励まされて、一歩一歩足を進めながら、ふいに、そんなことを思ったのだった。

 

生命(いのち)は

生命は

吉野弘

 

生命は

自分自身だけでは完結できないように

つくられているらしい

花も

めしべとおしべが揃っているだけでは

不充分で

虫や風が訪れて

めしべとおしべを仲立ちする

生命は

その中に欠如を抱き

それを他者から満たしてもらうのだ

世界は多分

他者の総和

 

しかし

互いに

欠如を満たすなどとは

知りもせず

知らされもせず

ばらまかれている者同士

無関心でいられる間柄

ときに

うとましく思うことさえも許されている間柄

そのように

世界がゆるやかに構成されているのは

なぜ?

 

花が咲いている

すぐ近くまで

虻の姿をした他者が

光をまとって飛んできている

 

私も あるとき

誰かのための虻だったろう

 

あなたも あるとき

私のための風だったかもしれない

 

(『吉野弘詩集』ハルキ文庫より)

 

 

 

これほどまでに、やさしく、うつくしく、正確に、この世界の成り立ちを表現した詩を、私はほかに知らない。作者である吉野弘さんは、今年の1月に87歳でお亡くなりになった。生涯に一篇でもこんなものを生み出すことができたのなら、もうそれだけで……なんて、未熟で我欲にまみれた私なんかは思ってしまう。完璧な言葉たちだ。

 

いや、しかし、まったくもって、世界はゆるやかに構成されている。地球の裏側で蝶が羽ばたいたことがきっかけとなって、いまここで竜巻が起こった―― なんていうたとえ話は昔からよく聞くが、私自身、この世界で起こることすべて、本当はまったく厳密じゃなくて、因果関係なんてものを軽く飛び越えた「ゆるやか」なところにあるのだと思っている。いや、ほとんど確信している。

 

確信のきっかけは、今年の春、数年来心密かに思い続けていたある願いが、まったく予想もつかないような、ものすごくカオティックな叶い方で、私のもとにやってきてくれたこと。そこに因果関係なんてものを見出すことは「一切」できず、時空がねじれてねじれてねじれまくって最終的に消滅してしまったような、というか最初から時間なんてものは存在していなかったような、そうでないと説明ができないような、いや、もう、説明そのものが不可能になってしまったような、説明しようと思うことすらおこがましいような、「そうなりました」と言うことしかもはやできないような、とにかく、もう、まったくもって、「わっけわっからーん!」(でもうれしい!)な叶い方だったのだ。

 

「時間などない」「すべては同時」って、こういうことか――!

 

圧倒的な歓喜と混乱の渦の中で、「色即是空」の、「即」の一字で表現される世界を、瞬間、垣間見た気がしたものだった。

 

あのとき自分がああしたからいまの自分がこうなっている、とか、あの人があんなことをしたから私はいまこんな羽目に……とか、私たちはいつだって因果の物語の中を生きている。でもそれは自分が作り出した「ストーリー」でしかないのだ。善も悪も清も濁も真も偽も美も醜もない、それゆえにすべてがある、そんな混沌の世界から、自分勝手にストーリーを見出して、自分勝手に泣いたり笑ったり……。それが私たちという生命だ。

 

この世界には、本当は全部がある。いや、そもそも全部がない。全部がないからこそ、全部がある。時間などない、「いま」「ここ」「即」の世界。本当は、私たちはみな等しく、そんな世界を生きている。

 

本当は誰のせいでもない。何のせいでもない。事は起こるように起きたのだ。そしてこれからも起き続けていくのだ。「即」の世界には、人間が頭で理解できるような「ストーリー」は存在しない。「そうなりました」が存在するだけ。

 

なのに、私たちは、「ストーリー」を生きることを止められない。自分勝手に因果関係を見出して、相手のせいにして手厳しく糾弾してみたり、自分のせいだと立ち直れないほどに落ち込んでみたり……。

 

しかし、それすら、「ゆるされている」のは……。

 

私はそこに、この世界を作ったなんらかの意志……神や仏と呼ばれる存在の、圧倒的な愛を感じるのだ。

 

「ゆるされて」生きている。「ゆるされて」存在している。「ゆるされて」怒り、嘆き、悲しみ、笑っている。「ゆるされて」うとましく思い合ったり、憎しみ合ったり、笑い合ったり、抱き合ったり……

 

そうやって生まれたすべてが、いつか誰かのための「虻」や「風」となって……

 

自分の行動や感情の行方を、私たち自身は決して知ることができない。

(「知りもせず」「知らされもせず」)

それでも、いつだって「完璧」なところへと運ばれていく。

 

因果関係を飛び越えたところにある、圧倒的なストーリー。

 

愛ってきっと、こういうことなのだ。

 

 

 

吉野さん。この詩を遺してくださって、ありがとうございました。

 

©Yoko Koide