ゆるせなくても、受けいれられなくても

「ゆるせない!」「受けいれられない!」

 

というようなことすら、

 

絶対的にゆるされていて、

 

絶対的に受けいれられているんですよね。

 

 

 

誰に? って聞かないでくださいね(笑)。

 

それは、それこそ絶対に答えられない、

 

ことばにできない領域の話なので。

 

 

 

まあ、あえて言うのなら、

 

「誰」を超えたところにいる/ある、

 

自分以外の、かたちを持たない「誰か」

 

ということになるかなあ……。

 

「いる」も「ある」も「誰か」も

 

ぜんぜん正確な表現ではありませんが……。

 

そんなものは実際にはどこにもないので……。

 

(あああ、堂々巡り……。)

 

 

 

絶対的な「ゆるし」、絶対的な「受容」の上で、

 

「これ」(文字通り「これ」です。目の前の「これ」)は、

 

いまここにこうして立ちあらわれているわけで。

 

 

 

その「ゆるし」や「受容」は、

 

完全、完璧な「ゆるし」であり「受容」であるので、

 

「ゆるせない!」という思いや、

 

「受けいれられない!」という思いすら、

 

完全、完璧に、ゆるして、受けいれてしまっているんです。

 

 

 

逆に言えば、

 

というか、極論すれば、

 

ゆるすことや、受けいれることは、

 

人間の仕事じゃない、

 

ということですね。

 

 

 

人間は、あくまで「ゆるし」や「受容」の対象であり、

 

(ゆるされ、受けいれられるものであり、)

 

その主体ではないのだと思います。

 

 

 

「ゆるそう!」「受けいれよう!」と頑張るのは

 

決して悪いことではないけれど、

 

ほんとうの「ゆるし」や「受容」は、

 

そういった個人の営みの背後に

 

いつだって静かに佇んでいて……。

 

 

 

その事実に気がついたときに、

 

人ははじめて「愛」の意味を知るのではないかな……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

よい一日をお過ごしください◎

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

©Yoko Koide