絶対的な「降参」の中で

見よう、見よう、と力まなくても、

 

すでになにかは見えている。

 

聞こう、聞こう、と力まなくても、

 

すでになにかは聞こえている。

 

感じよう、感じよう、と力まなくても、

 

すでになにかは感じられている。

 

 

 

いつだってそう。

 

しよう、しよう、と力まなくても、

 

すでになにかは為されている。

 

 

 

変な風に力まなくても、

 

すでに、すべては、

 

あるべき姿としてあらわされている。

 

 

 

「そんなこと言ったって、どうしたって力んでしまいます!」

 

 

 

「力む」ということすら、

 

あるべき姿として、

 

ただ、あらわされているのだとしたら?

 

 

 

……もう、降参するしか、ないですよね。

 

いや、降参「する」ことすら不要かな。

 

 

 

おまかせしよう、おまかせしよう、と力まなくても、

 

すでに、すべては、

 

絶対的な「おまかせ」の中で起こっているわけで。

 

 

 

やっぱり、降参です。

 

降参しかない。

 

 

 

南無阿弥陀仏

 

 

 

 

 

 

 

 

 

よい一日をお過ごしください◎

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

©Yoko Koide