いかれたBaby

京都の太秦というところに広隆寺というお寺があって、そこに日本の国宝第一号となった美しい弥勒菩薩の像がある。口元に微かな笑みを浮かべ、右手をそうっと頬に添えて、片足を膝の上に載せて思惟にふけっていらっしゃるそのお姿はあまりにも有名だ。中学や高校の社会の歴史の授業で写真を見たことがある方も多いだろう。

 

私自身、この弥勒さまが大好きで、京都に出かけた折には、できるだけ太秦まで足をのばすようにしている。清潔な宝物館の中で、過不足のない上品なライトに照らされたその細い体躯は、しかし、いつ見ても圧倒的な存在感で、気がついたときには弥勒さまの前で滂沱の涙と鼻水を流して懺悔、懺悔、懺悔、そして感謝、そしてまた滂沱の涙アーンド鼻水、ついでによだれ、よだれ、よだれ、このよだれでねずみぐらいあっという間に描けちゃうよ! なーんて事態に陥ったことも数知れず……。とにかく、愛しちゃってるんです。思わずがばと抱き付いて指の一本や二本も折りたくなってしまうほど……! (昔、実際にそういうことがあったみたいです……。)とにかくとにかく、私のスーパースターなのだ。好きが昂じて、ついには顔がそっくりになってしまったと言われることも多々……いや、嬉しいです……。

 

弥勒菩薩は未来仏とされている。お釈迦さまが入滅してから56億7千万年後、この地上に降り立って、我々衆生をことごとく救済してくださるのだとか……。ご、ごじゅうろくおくななせんまんねん……。これってつまり、「未来永劫来るつもりはないよー」ってことなんじゃないの!? 現世に生きる我々はどうなる!? 私たちは救ってくれないってのかい!? ええッ!? と、思わずスーパースターに向かって詰め寄りたくなってしまうが、そうではないのだ。だって現に、私は、弥勒さまのお像を見て、毎回救われているのだ。

 

あの独特なポーズは、「未来に、この迷える衆生を、どうやって救おうか……」とじっとお考えになっている姿なのだ。即座に手を差し伸べて、現実的に救ってくれることはなくても、ただただじっと考えて、考えて、考えて……。その姿だけでもう、有難いのだ。十分に力を与えてもらっているのだ。

 

自分を救ってあげられるのは自分だけ。誰かに現実的な手助けをしてもらうことがあっても、最終的な解決への道は、いつだってたったひとり、自分だけの旅路になるのだ。誰も代わってくれることはない。それでも、どこかで誰かが、いま、この瞬間にも、全力で、自分のことを考えてくれている、心の底から想ってくれている……。その事実を知ることは、自分をなによりも励まし、力づけてくれると思うのだ。これは仏に限らず、人間だってそうだ。どこかで、誰かが、いま、この瞬間にも、自分のことを想ってくれている。心の底から想ってくれている。ただもうそれだけで、光に向かって歩んでいく勇気がわき出てくる。たったひとりの旅路でもさみしくなくなる。大丈夫だと思える。逆に言えば、他人に対してできることなんて、ただ、「想う」ことだけなのかもしれない。でも、きっと、それでいいのだ。それで十分なのだ。弥勒さまは、私にそう教えてくれたのだった。

 

 

 

 

 

人はいつでも見えない力が必要だったりしてるから

悲しい夜を見かけたら君のことを思い出すのさ

(フィッシュマンズ「いかれたBaby」より)

 

©Yoko Koide